RED & BLACK

観劇日記

Black Lives Matterとミュージカル『ヘアスプレー』

話題になっていたので、ミュージカル『ヘアスプレー』映画版を見た。

話題になっていた、というのは、まず、コロナ情勢の中でミュージカルを毎週無料配信するプロジェクト”The Shows Must Go On"で配信されていたため(日本をはじめアジアでは見られなかったけど)。次に、Black Lives Matterの流れの中で、制作陣が、このミュージカルでは、今後は、「設定どおりの人種」の俳優が演じる必要があるという声明を出したこと。

www.onstageblog.com

 

"The Shows Must Go On"で無料配信されていたのは2016年の『ヘアスプレー・ライブ!』だけど、とりあえず2007年の映画版を見てみた。アマゾンプライムで無料で見られた。

作品の舞台は60年代のボルチモアだ。主人公の女の子トレイシーはダンスが大好きで、ローカルテレビ局のダンス番組に出演することを夢見ている。オーディションでは太った体形やリベラルな発言に対して差別を受けるものの、番組のレギュラーとなり、人気者になる。トレイシーは白人だが、黒人が出演できるのは月に一度の「ニガー・デイ」と呼ばれる日だけだったり、黒人と白人が一緒に踊ることが許されていなかったりといった差別を目の当たりにし、黒人差別と闘うことにする。

人種差別だけでなく、体形や年齢に対する差別について描いたミュージカルで、特に、トレイシーのお母さんに関する描写がよかった。トレイシーは明るくて、自分が太っていることに関するコンプレックスは全くない。反対に、トレイシーのお母さんは自分が太っていておばさんであることを気にして、ひきこもり生活を送っている。トレイシーが有名人になったことをきっかけに、お母さんも外にでてオシャレするようになるシーンは素敵だった。また、トレイシーのお父さんはいたずら用品店を営む変人なのだが(いたずら用品店って実在するのか・・・)、太っていておばさんの君を愛していると歌うところは良かった。原作の映画は88年公開だが、当時としてはこういうエイジズム観は革新的だったんじゃないかと思う。

一方、人種差別についての描写は、人種差別との闘いがテーマのミュージカルという前提で見ると結構拍子抜けしてしまった。トレイシーと親友のペニーが黒人の同級生シーウィードにホームパーティに誘われて「有色人種に誘われた!私たち進んでる!」と喜ぶシーンは結構ギョッとした。あと、ダンスの映画だからという面もあるが、黒人の登場人物は皆ダンスや歌が上手い設定で、流石にステレオタイプすぎではと思った。シーウィードが歌う”Run and Tell That"や、シーウィードのお母さんのメイベルが歌う”Big, Blonde and Beautiful"はすごい良い曲だから相殺されているけど。

全体的に、差別は「遅れている」人間がするものであり、時代と共に解消されていくと言及される場面が多くてちょっとナイーブな感じがした。(30年代と違って)60年代では人と違っていることがカッコいいのだから太っているからと言って引きこもる必要はない、と語るトレイシーや、黒人と白人が一緒に踊るのが「未来」だ、と言うテレビ番組のプロデューサーなど。確かに時代が下るにつれて差別はマシになっただろうけど、60年代に「新しい」感覚を持っていたはずの若者たちが大人になっても差別が消滅したわけではないことは、原作が制作された88年には分かっていたはずだ。また、ラストでは黒人の少女アイネスが番組に出演するやいなや大人気になり、番組は差別を撤廃しますとアナウンスしてハッピーエンドという展開で、楽天的すぎて違和感があった。テレビの前で見ていたのは差別をしない「新しい」人たちだけだったのだろうか。普通の人間が差別をするという認識がないのかなと不思議な感じだ。反対に、悪役の親子だけが酷い目にあうのも、差別は特別に悪い人間がするというという認識の表れだろうか。

 

舞台芸術において、配役と人種の問題は、第一には労働問題だ。ミュージカルの中には、白人ばかりの社会が想定される演目も多く、黒人やアジア人の役は比較的貴重だ。だからエスニックマイノリティの役はそのエスニックマイノリティが演じないといけない。さらに、登場人物全員が白人(や当地でのエスニックマジョリティ)であることが想定される作品やは、カラーブラインドキャスティングが行われることも多くなってきており、黒人のファントムやアジア系のエポニーヌもいる。このあたりは最近は常識になっていて、議論の余地はあまりないと思う。カラーブラインドキャスティングが成立するのは、外見上のリアリティを追及するのが舞台の唯一の魅力ではないという認識が共有されているからだ。たまに海外ドラマや映画のカラーブラインドキャスティングを見て困惑・反発する日本人を見かけるが、それを理解していないんだろうなと思う。

第二に、アイデンティティの問題だ。ある属性固有の問題は、それを共有する者が語るべきだ、ということだが、これは結構難しい気がしている。例えば、アメリカでの黒人差別を描く作品で、黒人の俳優が演じるべき、というのは直感的に納得できる感じがする。しかし、例えば、『ミス・サイゴン』のキムはベトナム人女性という設定で、初演時からずっとアジア系の女優が演じているが、多くはベトナム人/ベトナム系ではないし、ベトナム戦争を経験したわけでもない。「人種」(白人/黒人/アジア系)は一致させる必要があるが、より詳細には合わせる必要はないとみなされているのは何故だろうか。他者が想像し、自分ごととして表現して良い領域、良くない領域は曖昧だ。欧米で差別を受けて生きる黒人/アジア系の役を、黒人/アジア系がエスニックマジョリティである地域で生まれ育った俳優が演じるのは良いのだろうか。トランスジェンダーの役はトランスジェンダーが演じるべき、という議論もあった気がするが現状どうなっているのかよく分からない。戦争や病気はよく演劇のテーマになるが、それを経験したことのない者が演じてよいのだろうか。人種のように、舞台上で観客にはっきりと分かる属性にしか適用されないのだろうか。役柄と同じ経験をした者のみが演じてよいという見方は、他者を「演じる」という観念に対立する。他者を「演じる」ことと「本物」が語ること、舞台上で嘘と本当が交じり合うところに魅力が発生するということなのだろうか。分からないので、ここで終わりにする。

 

それで、例えば欧米で作られた人種差別に関する作品を東アジアで上演するにあたって、どうするか。

まず1つ目の選択肢は、今回の声明の通り、意図されたとおりの人種のキャスティングを行うこと。日本ではミュージカル俳優自体が多いわけではないし、かなり難しいと思う。エスニックマイノリティの役だけでなく、マジョリティの方もそうするとなればなおさらだ(今回の声明ではそれが要求されているようだ)。

2つ目の選択肢は、当地の人種的構成比からして無理のないキャスティングにして、設定はそのまま上演することだ。今年日本でも『ヘアスプレー』を上演することになっていたが、この方法を取っていた(唯一、メイベル役のクリスタル・ケイさんはアフリカ系)。この時点では、原作の制作陣にも、設定上の人種を踏襲したキャスティングでないことは許容されていたようだ。

www.huffingtonpost.jp

 

3つ目の選択肢としては、上演地の問題に読み替えをすることだ。例えば、欧米での黒人差別に関する作品を日本で上演する場合に、在日朝鮮人や中国人、アイヌの問題に置き換えて上演すること。以前韓国で『アイーダ』を見たときの感想にもその可能性について書いた。『アイーダ』では古代エジプト人は白人、ヌビア人は黒人キャストが演じるのが通例になっている。歴史上そうだったわけではなく、エジプト人/ヌビア人の侵略する/されるの関係を白人/黒人になぞらえた演出になっている。だから、それを別の民族の関係性に演出しなおすことは無理がないんじゃないかと思ったのだ。(実際は、『アイーダ』はディズニーミュージカルだから演出の変更は難しいけれど)

iceisland.hatenablog.com

ただし、『ヘアスプレー』は、60年代のボルチモアであることをかなり強調した舞台なので、読み替えは適していないかもしれない。

今回の声明について、Twitterでいろいろ反応があったが、日本人キャストが許されないなんて不自由であるという意見と、固有の問題を描写するためには仕方がないという意見の両方を見た。面白かったのは、シェイクスピアの専門家である北村紗衣先生をはじめとした演劇畑の方々には前者の意見、映画好きの友人には後者の意見が多かった気がした。クラシックな演劇では、演出による解釈の違いや読み替えが醍醐味な感じがする。一方映画では、ある作品はそれ一つで完結した不変の世界であるイメージだ。それぞれのファン・コミュニティでは上演による変化に対する印象が異なるのだろう。ミュージカルは、演出の変更が許されている作品と許されていない作品があるため、その中間に位置すると思う。

 

See also:

iceisland.hatenablog.com