予習編で予告した通り、『マリー・アントワネット』見てきた。最近シアターオーブばかり行っている気がする。
私は共和主義者なので、途中まで「この反革命ミュージカルがああー」と思いながら見ていたが、2幕で勢いに飲まれてうっかり感動してしまいシマッタという感じだった。
基本情報
2021年2月21日(日)ソワレ @シアターオーブ
キャスト
ルイ16世:原田優一
フェルセン:甲斐翔真
オルレアン公:小野田龍之介
エベール:上山竜治
ランバル公妃:彩乃かなみ
ローズ・ベルタン:彩吹真央
レオナール:駒田一
あらすじ
ストーリーは、マリー・アントワネットと平民の女性マルグリットを主人公として、フランス革命の勃発からマリー・アントワネットの処刑までを描くというものだ。
マリー・アントワネット側の物語は特に目新しいものはない(ひどい)のでマルグリット側のストーリーだけ記載する。
路上生活をしているマルグリットは、マリー・アントワネットの舞踏会に忍び込み、民衆の窮乏を訴えるが、理解されず追い出され、失望する。その後、盗みで生計を立てているところを、詩人のエベールと出会う。エベールとマルグリットは、王位を狙うオルレアン公を出資者として、王妃のスキャンダルをパンフレットにして売り歩き成功を収める。
さらに、オルレアン公は首飾り事件を計画し、マルグリットはニセ王妃の役を務める。オルレアン公の狙いどおり、首飾り事件事件を通じて王妃の人気はさらに凋落する。
マルグリットは民衆に女だけでベルサイユに攻め込もうと呼びかけるがうまくいかない。そこにオルレアン公が現れ金を配ると、民衆たちは喜々としてベルサイユに進軍、国王一家をパリまで連行する。
監禁された王妃の見張り役として、マルグリットは王妃の部屋係を命じられる。マルグリットとマリー・アントワネットはぶつかり合いながらも交流を深める。さらに、同じ子守唄を知っていたことから、マルグリットが王妃の腹違いの姉妹(フランツ1世の私生児)であることが明らかになる。
マリー・アントワネットはフェルセン伯爵宛の手紙をマルグリットに預けるが、そこには外国勢力を使ってフランツ革命政府を倒す計画が書かれていた。
王妃の革命裁判で、王妃の反逆罪の証拠として、マルグリットは手紙に関して証言を求められるが、逡巡の末、マルグリットは証言を拒否したが、結局王妃は死刑判決となる。
王妃の処刑の日、倒れた王妃をマルグリットが助け起こす。王妃はマルグリットに礼を言い、処刑される。
エベールはマルグリットを王妃に同情し反逆罪の証拠を隠したと非難する。マルグリットは逆に、オルレアン公が王位を狙っていること、エベールがそれを知りながら共謀していたことを暴露する。これによりエベールとオルレアン公は失脚する。
感想
民衆が愚かに描かれすぎているし、この脚本だと、革命が起きたのは全部オルレアン公の陰謀のせいみたいに見える。
オルレアン公が王妃の中傷新聞を発行したりするだけで愚かな民衆が騙されて革命を起こしました、なんて、民衆と革命に対する侮辱でしかない。特に、ベルサイユ行進の際、オルレアン公が民衆に金を配って動員したというエピソードはひどい。ネット右翼の「左翼のデモは金で動員されている」というデマなみじゃないか。
民衆については、醜悪さと愚かさが執拗に描かれ、非常にグロテスクである。「自由・平等・博愛」というスローガンは「暴徒」が虐殺を行う際に使われ、皮肉に描かれている。革命家もエベールしか登場せず(終盤とつぜんロベスピエールやダントンが登場)、活動内容といえば王妃のスキャンダルを新聞にするだけ。その醜悪な革命側の中で、マルグリットだけが人権感覚に目覚めたように描かれていて違和感がある。
王妃の処刑の後、三色旗が舞台にババーンと出るわけだが、フランス革命をこんなに醜く描いちゃって、フランスに怒られないかな?(というか怒られろ)と心配になる。
おそらく、この話はマルグリットのビルデュングスロマンなんだろうと思った。
物語のはじめでは、権力者に陳情して世の中を変えてもらおう、という態度だったのが、自分たちで行動して世の中を変えよう、という意識に変化する。だんだん民衆にも失望してくるが、王妃との交流でヒューマニズムに目覚める(?)。最終的にはミソジニーを撒き散らすエベールや隠れ王党派のオルレアン公を失脚させ、「真の共和主義者」になってめでたしめでたし。...じゃないですよね、演出の意図としては。
とにかく昆さんマルグリットが非常にパワフルで終始圧倒され、目が離せなかった。ひねくれた受け答えとか、お行儀悪い歩き方とか、妙にリアリティがあり非常に良かった。
マルグリットが運動の場で体感する女性差別はなかなか痛烈に描かれている。マルグリットがジャコバン派の面々に女だから排除されそうになるだけでなく、女たちに行動を呼びかけて拒否される場面は、女たち自身が女性差別を内面化していることを示している。
当時、男性の活動家たちが女性の権利を非常に軽視していたのは事実だが、しかし、現実のヴェルサイユ行進では、数千人の女性たちは自分の意志で(決して貴族に買収されたのではなく!)決起した。その中には後に革命的共産主義者同盟女性協会を設立するフェミニストたちもいた。本作では、マルグリットを「持ち上げる」ために民衆を貶めているように思われる。
民衆たちが王妃の浮気を過剰に非難するのもミソジニーを描いているのかもしれないが(王の浮気なら非難されないだろう)、革命側ばかりミソジニーに染まっているかのように描かれていてフェアではない。
また、女だから恋愛感情や家族愛に対して同情する、という描写はどうかと思う。マルグリットが愛に餓えているというのも(原作を読むと)何かなあ。
最終的に、憎しみ合うのをやめて愛し合いましょうという陳腐なまとめで終わってしまったのも、エッ!?という感じだった。
どうも、フェルセンと王妃の恋愛をストーリーのメインに持ってきたせいで、フェルセンも王妃も、王妃が浮気しているから(そしてそれをオルレアン公がバラしたから)民衆に嫌われて革命が起きたと思っているみたいに見えてしまった。民衆の窮乏とか財政破綻とか特権階級への課税の話も出てきてはいるが、サラッと流されすぎている。ネッケルの罷免の話とか入れないと。
王は「私が鍛冶屋なら〜」王妃は「私達が普通の恋人なら〜」と言っているので、王族も身分制の犠牲者だと言いたいんだろうか。でも、王妃は王権神授説を信じているし、マルグリットが指摘しているように「(マルグリットよりも)自分が上だと思っている」んですよね。
人間として人格をわかり合う前に、そういった無意識にまで及んだ分断があり、ぶつかり合うことでその分断を超えてわずかに交流するというのは良かった。昆さんマルグリットも笹本さんマリーもパワフルで迫力があり、このシーンはさすがに感動してしまった。子守唄のくだりとか血縁関係設定とかはなくてもいいとさえ思う。
オルレアン公は、役柄としては、王党派で民衆をバカにしやがるカス野郎だが、曲はカッコいいし小野田さんの歌は上手いしでムカついた。
ルイ16世役の駒田一さん歌上手くて良かった。ルイ16世の描写はちょっとアホっぽすぎて気の毒だけど...
今回の演出では、貴族の嫌なところや愚かなところはコミックリリーフのローズ・ベルタンやレオナールにだいぶ押し付けていて、ちょっとなあという感じ。この人たち貴族じゃないし。ヴァレンヌ逃亡の失敗もレオナールのせいですか?
ランバル公妃は史実ではポリニャック伯夫人やエリザベート内親王がいたはずの部分まで進出し大出世、良かったね(?)なぜかタンプル塔から一人だけ抜け出し(貴方も囚人では?)一瞬で虐殺されるという...
舞台演出は照明がロマンチックで、衣装の豪華さも相まってテーマパークみたいな感じでよかった。舞台の回転も効果的に使ってるなと思った。しかし、渋谷のビルでこんなキラキラした舞台を見ているプチブル連中が、「街に目を向ければ地獄、何で気づかないの?」という歌を聞いているのは批評性がある。
音楽はいつものリーヴァイ節だから特に言うことはなし。『エリザベート』の「ミルク」の曲が聞こえた気がしたけど、セルフパロディですかね?
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【感想】遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』 - 絵のない絵本