RED & BLACK

観劇日記

【感想】『ロード・オブ・カオス(Lords of Chaos)』

『ロード・オブ・カオス』見てきた。

Lords of Chaos(邦題:『ブラック・メタルの血塗られた歴史』)というドキュメンタリー本を原作にした映画で、初期ブラックメタルシーンの有名なアレコレを描いている。

映画としての面白さよりも、ブラックメタラーからの視点で見てしまうが、感想を書きます。

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音響をウリにした劇場で見たのだが、度々音が途切れたり、ハウリングしたりで、何だかなあという感じだった(名誉のためにどこの映画館かは書かないことにする。シネマートではない)。終了後、もう一回無料で見られる券をくれたのだが、もう一回は見たくない・・・

ともあれ、ライブシーンは音声に異常もなく楽しめた。Freezing Moonを大音響で聞けるというだけで、ライブシーンだけでも見た価値があった。もちろん実物の音源じゃないのだが、モノマネも上手かった。

 

主人公はユーロニモスで、デッドとの出会いからヴァーグ・ヴァイカーネスに殺されるまでを描いている。「真実と嘘、そして実際に起こったことに基づいた物語」とあるが、本人たちしか知らない細部や思っていたこと以外は、基本的には事実に基づいているという印象だ。(本人たちからすると違うのかもしれないが)

 

ブラックメタラーや登場する本人たちからは結構不評な作品で、私もはじめは何か嫌だなという気持ちになった。結局は、川嶋未来氏が言うように、「夢を壊されて嫌がっている」ということになると思う。

私はユーロニモスが殺された93年生まれなので、当然リアルタイムで初期ブラックメタルシーンを経験していない(そんな日本人は川嶋未来含む数人しかいないんじゃないか)。2000年代にブラックメタルに触れたときには、「自殺や殺人や教会放火をするやばいやつらのジャンル」というイメージがあった。というか、ブラックメタルといえば音楽性よりも先に、そういう現実での犯罪や自殺のイメージが強くあった。映画で描かれているインナーサークル以降、ノルウェー国外でも、Dissecionのジョン・ノトヴェイトはじめ色々なミュージシャンの自殺、ネオナチ方面での発展、ライブでの自傷、Scilencerは精神病患者の叫び声をボーカルに使っているとかの噂もあり。ブラックメタルといえば思想的に異常なやつらのメタルだと思われていたし、そういう伝統は今でも続いている。

そういうやばい音楽を聴いている自分、というような消費の仕方もしてきた。これは、他のブラックメタラーの方々も多かれ少なかれそういう面があると思う。

それに対して、「実は彼らも普通の若者で、そういうイメージになっちゃって苦しんでました」と言われるとウッとなってしまう。しかし、よく考えれてみれば、そうかなとも思う。90年代はまだ他者をキャラ的、アイドル的に消費するのが許される時代だったけど、今はもう違うよね、ということかもしれない。

みんな普通の若者で、音楽やって、たまり場でダラダラして、彼女とセックスをして、教会を燃やして、楽しそうで良かったねという感じだった。(良くはない)

ちょっとイメージとは違ったが。映画ではパーティでウェーイみたいな感じだったが、もっとオタク集団だと(勝手に)思っていた。あとみんな実家が太いのも意外だったが、それは事実みたいだ。

 

でも、やっぱり彼らの思想が全部「ポーズ」でした、というのは違うと思うんだよな。単に売れるため、注目を集めるためのパフォーマンスではなかったと思う。本気で悪魔主義(有神論的な)を信じていたかは別として、キリスト教的価値観に違和感を感じていたのは事実だろうし。

個人的には、ブラックメタルの思想は自分を「悪」に位置づけることで解放されたり救済されたりという面があると思っている。殺人も教会放火もしていないけど、個々に理論建てて今もまだ悪魔崇拝とかその他の思想を掲げて活動しているブラックメタルのアーティストは結構いるわけで。やはり、北欧のブラックメタルシーンでは、Venomのジョーク的な悪魔崇拝とは違って、たしかに共感があったと思う。

 

この映画ではブラックメタルの伝説のミュージシャンたちがアホみたいに描かれているが、何となく、まだ生きている人たちには厳しめ、死んだ人たちに優しめな描写だった気がする。

ユーロニモスもデッドも繊細な美青年という感じだった。ユーロニモスとデッドってあんなに仲良しだったんだろうか。デッドと仲良しといえばネクロブッチャーさんという印象があった。デッドはユーロニモスが殺したという説もあったから、それには心を痛めていたのかもしれない。

ヴァーグ・ヴァイカーネスの描写は明らかに悪意があった。ぽっちゃりした育ちの良い男の子という感じ。当時あんなに太っていなかったはずだし、本人が「俺はあんなユダヤの豚じゃない」と言ってた意味が若干分かった(ユダヤの豚呼ばわりを肯定している訳ではない。念のため)。

記者が「悪魔も、北欧神話も、ナチスも好きなの?変なの~」みたいにいう場面があるのだが、別に矛盾しているわけではないと思うし・・・(現在本人は悪魔崇拝は否定している)。彼の思想は全く肯定しないが、20年以上かなり一貫した主張をしている。あんまり厨二病の暴走みたいに描くのは何だかなと思った。ただし、ノルウェーで大量殺人を起こしたブレイビクをはじめ、彼の思想を肯定するフォロワーは今でもいるから、描写には気を使ったのかもしれない。パンフレットを見ると、ヴァーグには許可を取らずに映画を作ったみたいだが、曲の権利はどうなっているんだろうか。

ユーロニモスやヴァーグ以外の人たちも、だいぶしょうもない感じで描かれていた。いつもヘラヘラしていて肝心な場面になると逃げてしまうヘルハマー。スプラッタ映画ばかり見ていて殺人をしてしまうファウスト。ヴァーグの家に居候してパシられているブラックソーン。

マトモなのはデッドが死んだ後ユーロニモスにキレてMayhemを脱退するネクロブッチャーさんと、ちょっとしか出てこないアッティラ

ちなみにEmprorのイーサーンやDarkthroneのフェンリスも出てきたらしいのだがどこか分からなかった。

 

映画では、殺人や自傷シーンがかなり執拗にグロテスクに描かれている。見るのは辛かったが、必要な描写だったと思う。ブラックメタルシーンの「殺人」や「自傷」を記号的に消費してきたが、それを現実に引き戻すためには、ああいう描写が必要なのかと思う。

 

当事者の人たちが、自分の視点で当時について語ってくれる契機になったのは良かったと思う。また、ブラックメタルファンとしても今までの消費の仕方を振り返ることができ、よかった。

ヘルハマー、ネクロブッチャー、アッティラはMayhemを再結成して活動しており、そこにブラックソーンもゲスト参加したりしているようで、彼らなりの過去への向かい合い方なのかなと思う。ファウストは出所後も短期間だがEmperorに参加したり、今でも昔の仲間と交流しているようだ。一方、同じ殺人犯でも、ヴァーグは獄中でずっと一人で音楽活動を続け、周りにシンパしかいないようだ。

やっぱりMayhemの1stアルバムは傑作だし、初期のBurzumも独特の魅力があった。それがユーロニモスが死んで、ヴァーグが収監されて終わってしまった(ヴァーグは獄中でもアルバムを出していたが、方向性は変わってしまった)のは残念だ。ヴァーグがユーロニモスを殺さなければ、今以上に面白い音楽の発展があったのかなと想像してしまう。

 

以下、当事者や関係者の映画への反応

 

ヴァーグ:

YouTube動画がいっぱいあるが、とりあえずこれ。

the-ultimate-media.com

アッティラ・シハー、ヘルハマー、ネクロブッチャー、ブラックソーン:

映画化には反対だったとのこと。

news.mynavi.jp

Darkthroneのフェンリス:

これまた映画化には反対意見

metalinjection.net

川嶋未来

ave-cornerprinting.com

 

See Also:

WATAINが来日公演して(個人的に)盛り上がっていたときに書いた記事。ノルウェイジャンよりもスウェディッシュ・ブラックメタルの方が好きです。

iceisland.hatenablog.com

 

iceisland.hatenablog.com

iceisland.hatenablog.com

【感想】ミュージカル『アリージャンス~忠誠~』2021年

『アリージャンス』見てきた。今年一番気になっていた作品の一つで、すごく楽しみにしていた。

日系アメリカ人俳優であるジョージ・タケイの経験をもとに、第二次世界大戦中の日系人の強制収容について描かれたブロードウェイ作品。今回は日本初演である。

おりしもアメリカでアジア系への差別が話題になっているので、期せずして情勢に合った作品を見ることになってしまった。

 

基本情報

2021年3月27日(土)マチネ@東京国際フォーラムCホール

キャスト

ケイ:濱田めぐみ

サミー:海宝直人

タツオ:渡辺徹

おじいちゃん/サミー(現代):上條恒彦

フランキー:中河内雅貴

ハナ:小南満佑子

マイク・マサオカ:今井朋彦

 



あらすじ

カリフォルニアに住む日系人のキムラ一家。太平洋戦争が勃発すると、財産を奪われ、日系人収容所に送られる。非人道的な環境に苦しみながらも、なんとか生活していくが、政府からの「忠誠質問状」が送られてくる。特に、従軍の意志があるかと問う27問目と、天皇への忠誠を拒否するかと問う28問目は議論を巻き起こす。キムラ家の面々がそれぞれの方法で差別に抵抗した結果、家族は別々の道を行くことになる。

日系1世でありアメリカ市民権のない父タツオは、日本人・日系人の人権を侵害する不当に強制収容を行っているにも関わらず、さらなる犠牲を求める忠誠質問状に怒り、Noと答え、より過酷な強制労働収容所に送られる。

日系2世の弟サミー(イサム)は、従軍することで日系人の権利を獲得しようと志願。日系人だけで構成された442部隊に配属され、ヨーロッパ戦線で活躍し英雄となるが、最終的には戦友の多くを失い自身も障害を負う。

姉のケイ(ケイコ)は、収容所に残り、恋人のフランキーとともに徴兵拒否運動に参加。フランキーは逮捕されるものの、結婚し子供を授かる。

終戦後、日系人は収容所から解放され、サミーも戦地から帰還する。フランキーがキムラ家の「息子」に納まっているのを見たサミーは激昂。ケイと口論の末、去っていく。

50年の時が過ぎ、サミーのもとにケイの死の知らせが届く。ケイの遺品を見たサムは、ケイの幽霊とついに和解する。

 

感想

差別と抵抗/闘争

最初に沸いてくる感想しては、日系人差別、ひど!という感じ。収容所の環境は尋常ではない。馬小屋に住まわされるし、トイレに壁はないし、寒すぎるのに毛布なくて赤ちゃん死ぬし、日系人用の薬はないし(米軍用はある)、番号を書いた荷札をつけられるし、全く人間扱いされない。しかも強制不妊手術まで計画されていたとか。といっても日本では優生保護法による不妊手術強制は1996年まであった。人類、つい最近まで当然のように優勢思想が蔓延していたのやばすぎる。

マイノリティが差別に抵抗する際に、運動論の違いで分断されてしまうのはやりきれない。現代から見ると、ケイ&フランキー組の非暴力抵抗運動が「正しい」運動ということになる。サミーとロビイストのマイク・マサオカ組の方法論は「自分たちは役に立つことを示し、差別をやめてもらう」というものだが、明らかに人権概念の原則に反している。しかし、過去には、特に戦時中は、様々な反差別運動がこの論法に巻き込まれてしまい、全体主義軍国主義に回収されてしまった歴史がある。

しかし、苛烈な差別のなかで生き残るには、マイク・マサオカのように妥協するしかなかったのではないかという印象も抱かされる。マイク・マサオカの独白の場面は、この作品で最もミュージカルっぽくない特殊なシーンである。ここで彼を擁護し、彼の運動を否定しなかったところに、プロダクションの当事者性を感じた。

この物語中では一見サミーが悪者にさせられているように見えるが、サミーが孤独になってしまったのは、他の道をとった同胞を否定するようになってしまったからである。それに対し、最後まで連帯を重視したフランキーは家族を手に入れることができた。

 

家族の物語

サミーは父の理想の息子になれないという葛藤を抱えている。父に認められるため、自尊心を獲得するために志願する。しかし、従軍するという決断をしたことで、収容所での日系人のまとめ役という役割、さらに父の「息子」という立場までフランキーに奪われてしまう。サミーの軍人としての活躍のおかげでタツオは収容所から出られたのに、帰還したサミーを認めてあげないのはちょっとひどいんじゃないかと思った。

弟サミーが自分の道を選択して歩んでいくのに対して、ケイは、おじいちゃん、父、弟という3世代の男を、女一人でケアする役割を負わされている。フランキーと出会って自分の生きる道を見つける、というストーリーだが、結局、結婚して子供を産むという家庭内の役割に戻っていくので、どう変化したのかがちょっと分かりづらかった。

 

日系人の描写

現代の日本人が、戦中の日系一世(日本人)・日系二世を演じるのは非常に難しかったと思うが、よく考えられた演出と演技でうまく物語の世界に入ることができた。

冒頭の夏祭りのシーンから、笹ではなく普通の木に短冊が飾られ、アメリカンなワンピースを着た人たちが盆踊り(七夕で盆踊りってするっけ?)。日本とは違う日系人社会の話なんだ、ということが視覚的に伝わってきた。

日系1世が家父長制的感覚を保持しているのに対して、英語が堪能な2世の方が活躍して軋轢を生んだり。日系人アメリカに同化していく過程で起きる問題も丁寧に描かれていてリアリティがあった。

 

キャスティングについて

ケイ役の濱田めぐみさん、サミー役の海宝直人さんの歌は文句なしで素晴らしい。

タツオ役の渡辺徹さんは、ミュージカル初出演ということで所謂ミュージカル的な歌い方ではないのだが、頑固親父の演技が良く、歌うま姉弟と並んでも遜色なかった。

フランキー役の中河内雅貴さんはダンスが大変上手かったが、歌はまだ伸びしろがある感じだった。キムラ姉弟と張り合うシーンが多いし、オリジナルキャストのマイケル・リーさんとも脳内で比較してしまうので、ちょっと気の毒な感じだった。あと、ケイに比べて若すぎるような・・・(ケイはオリジナルキャストもレア・サロンガさんだし、結構年をとっている設定なんだろうか。)

 

演出について

日系一世である「おじいちゃん」は英語が苦手という設定なので、ブロードウェイ版ではところどころ日本語の台詞が入っていた。今回の公演では、逆に、白人の台詞が一部英語になっていて、英語な苦手な私は「おじいちゃん」の気持ちを味わうことができ良かった。

ブロードウェイ版の日本語はところどころ変だったのだが、自然になっていて翻訳者さんの苦労を感じた。「石から石」って何だ・・・と思っていたが、日本のことわざじゃなくて孔子の言葉だというふうにちゃんと台詞が変更されていた。

オリジナル・プロダクションは、俳優以外もほぼアジア系で構成されていて画期的である。ただ、作詞・作曲のジェイ・クオ氏のコメントに「日本人の耳にはでたらめな歌詞に聞こえるのではないかと思った」とあり笑った。この内容にも関わらず、ブロードウェイ公演では日本語が分かる観客は想定されていなかったらしい。

 

戦争の残酷な場面は直接描かない演出で、抑制することで悲惨さが伝わってよかった。サミーの所属する第442部隊が壊滅する場面では、死んだ兵士たちが舞台の後ろに去っていくのと同時に、日系人遺族たちが現れて、遺品を見て嘆き悲しむ、というような。広島原爆投下の場面は、歌と光で表現されている。原爆投下について、具体的な言葉は全くないが、日系人収容所での非人道的な環境や、その他の日系人差別と地続きのものであるという演出になっていたと思う。イタリア人やドイツ人を収容所には入れない、という台詞もあるとおり、原爆投下も人種差別の結果であるという見解だと思う。原爆投下が正当化されるアメリカ社会にこの作品を発表してくれて嬉しい。しかし、強い光で観客を照らす演出は苦手なので参った(光で偏頭痛が誘発される体質なので)。

 

音楽は、典型的なブロードウェイ風の曲に、ところどころ日本的な旋律とか笛の音とかが入っているというもの。音源を聞いたときは「オリエンタル」すぎないか~?と思ったが、実際舞台で聞くとあまり気にならず、いい感じだった。

オケが幕の後ろにいる演出は面白いと思ったけど、幕で音が遮られてしまうのはちょっと残念。東京国際フォーラムははじめて行ったけど、オケピがないんだろうか。音響もあまり良くない感じがして、それは残念。

 

場面転換の際に、年号や場所がスクリーンに表示される。横書きの英語と縦書きの日本語を組み合わせるのが垢抜けていて良かった。特に、日本語はちゃんと旧字体で、古い本のようなフォントなのがすごい好みだった。日本語での表示はブロードウェイ版でもあったんだろうか?(未確認)

 

【感想】『ロケットマン』2019年

ロケットマン』がAmazon Primeに入っていたので見た。

エルトン・ジョンの半生を描いたミュージカル映画エルトン・ジョンについてはミュージカル『アイーダ』と『ライオンキング』しか知らない状態で見たが、この映画はミュージカルに携わる前の時代を描いている。

しかし、精神的に辛いシーンが続く映画だった。エルトン・ジョンは幼少期、息子に関心のない両親に育てられ、愛情に飢えていた。成功してからも作詞家のバーニーにはフラれるし、マネージャーの彼氏には利用されて暴力を振るわれ、ゲイなのを隠して結婚した女性ともうまくいかない。孤独感を埋めるために、アルコールやドラックの依存症になってしまう。とにかくエルトンがひどい事をされたり言われたりするシーンが多くてやりきれない。

エルトン・ジョンのライブシーンがたくさんあるのだが、エルトンが珍妙な衣装で派手なパフォーマンスをしたり、セレブな生活をするのは、本来の自分を覆い隠すためなので、素直に盛り上がることができない。曲調と登場人物の気持ちが一致していないのは、あまり舞台のミュージカルにはないので、珍しい演出だなと思った。

ライブのシーンも全て、エルトンを演じているタロン・エガートンがやっているらしく、歌もうまいし独特の表情とかすごい。

 

最終的には、エルトンは依存症の治療施設で治療を受けて回復し、ハッピーエンドとなる。自分自身と自分の音楽を認めることができるようになるのだが、しかし、いままでエルトンにひどい事をしてきた両親や元彼と和解することはないし、ずっと支えてくれたバーニーと付き合えるというわけでもない。

並の脚本だと、依存症から回復した後、夫と出合って愛し合ってハッピーエンドとなりそうなところだ。しかし、本作では、パートナーと出会えたのは、物語が終わったあとのエピローグでのことだ。あまりカタルシス感はないが、現実的で正しい演出だと思った。

 

『デスノート The Musical』ロシア語版の謎

YouTubeを見ていたら変わった動画を見つけた。ミュージカル『デスノート』をロシア語で歌っている動画。

韓国版は知っているけど、ロシアで上演されたことなんてあるの?となり、調べてみた。

youtu.be

 

デスノート The Musical』の海外展開

デスノート The Musical』はもちろん漫画の『DEATH NOTE』を原作にしたミュージカル。ただし、テニミュなどの「2.5次元」ミュージカルとは違い、海外への輸出を念頭において制作された作品である。プロダクションは、2.5次元ミュージカルを専門に手がける制作会社ではなく、ホリプロ・ステージが手掛けている。

制作陣を海外から招聘するという気合の入りよう。作曲は、『ジキル&ハイド』などのブロードウェイミュージカルを手がけているフランク・ワイルドホーン。ワイルドホーン氏は、近年、宝塚の演目に曲を提供したり、宝塚女優だった和央ようかさんと結婚するなど、日本との関係が深くなっている。脚本は、ワイルドホーンと共に『ボニー&クライド』を手がけたアイヴァン・メンチェル。演出は日本の演出家の第一人者といっていい栗山民也。

 

まず、英語で脚本と歌詞が制作され、2014年に英語のデモアルバムがリリースされた。英語版上演の計画もあったらしいが、今のところ実現していない。

初演は2015年4月に東京の日生劇場で行われた。その後、時を置かずして、同年7月には韓国のプロダクションによるソウル公演が行われた。当初から、日本・韓国の二カ国で展開する計画だったことが分かる。特に韓国版キャストは超豪華で、ライト役はウェストエンドでも活動していたホン・グァンホさん、L役が東方神気のキム・ジュンスさん。

日本版、韓国版ともに、漫画が連載終了して久しいにも関わらず、再演もされている。日本版は2017年に再演され、このときは台湾公演も行われた(私もこのときに見た)。2020年にも再々演予定だったが、コロナのために中止になってしまった。韓国版も2017年に再演されている。

 

ロシア語版

で、ロシア語版って聞いたこと無いけど、何なんだ?

調べてみると、なんとWikipediaロシア語版には、漫画の『デスノート』の記事から独立して、ミュージカル『デスノート』の記事がある!ちなみに、英語、韓国語、ロシア語、ポーランド語、フィンランド語にもある。しかし日本語版にはない。何でだ。

Тетрадь смерти (мюзикл) — Википедия

「2017年にロシアで上演する計画がある」と書いてあるが、その後どうなったのかは記載なし。

 

さらに調べてみると、以下のサイトに、ロシアでの上演について記載があった。

Death Note: The Musical | Death Note Wiki | Fandom

2017~2018年にかけて、コミコン・ロシアのほか、モスクワやサンクトペテルブルクでコンサート形式で上演が行われたと書いてある。冒頭の動画はコミコン・ロシアでのステージだったのだな。主催は、Pentagram LTDという、オリジナルミュージカルやコンサートの上演をしている団体のようだ。

ПЦ "Пентаграмма"

YouTubeを探してみると、冒頭のコミコンの動画のほかにも、ライブハウスらしきところで歌っている映像も出てきた。『デスノート』の曲以外もやっているので、ミュージカルコンサート的なイベントなんだろうか。

月役のアレクサンドル・カジミンさんはロシアでは有名なミュージカル俳優さんのようで、今度『チェス』にも出演するようだ。L役のヤロスラフ・バヤルナスさんも若いけどなかなかうまい。

www.youtube.com

 

そんなことを調べている間に、ちょうど、今年4月にモスクワでコンサート形式の上演をするというニュースが入ってきた。

 
 
 
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アイヴァン・メンチェルのインスタには、「日本の同僚との長きに渡る交渉、多くの困難を経て、ついに上演が決定した」とある。なんか、すごく、権利関係でなんらかのトラブルがあったことを想像させる文章なんですけど・・・

というか、今までのコミコンのステージとかでは、許可を取らずにやっていたんだろうか・・・それで、正式にライセンスを取ろうとしたら揉めてしまったのでは?あくまで推測ですが。ホリプロから何のアナウンスもなく、日本語圏で一切話題になっていないのも、怪しい。アナウンスありました

 

2020~2021年は「日露地域・姉妹都市交流年」だそうで、その一環の上演ということになっているらしい。日露交流のみならず汎ユーラシア的ミュージカル文化創出のためにがんばってほしい。

 

陰謀論なのに感動してしまう|ミュージカル『マリー・アントワネット』2021年

予習編で予告した通り、『マリー・アントワネット』見てきた。最近シアターオーブばかり行っている気がする。

私は共和主義者なので、途中まで「この反革命ミュージカルがああー」と思いながら見ていたが、2幕で勢いに飲まれてうっかり感動してしまいシマッタという感じだった。

 

 

基本情報

2021年2月21日(日)ソワレ @シアターオーブ

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キャスト

マリー・アントワネット笹本玲奈

マルグリット・アルノー昆夏美

ルイ16世:原田優一

フェルセン:甲斐翔真

オルレアン公:小野田龍之介

エベール:上山竜治

ランバル公妃:彩乃かなみ

ローズ・ベルタン:彩吹真央

レオナール:駒田一

 

あらすじ

ストーリーは、マリー・アントワネットと平民の女性マルグリットを主人公として、フランス革命の勃発からマリー・アントワネットの処刑までを描くというものだ。

マリー・アントワネット側の物語は特に目新しいものはない(ひどい)のでマルグリット側のストーリーだけ記載する。

 

路上生活をしているマルグリットは、マリー・アントワネットの舞踏会に忍び込み、民衆の窮乏を訴えるが、理解されず追い出され、失望する。その後、盗みで生計を立てているところを、詩人のエベールと出会う。エベールとマルグリットは、王位を狙うオルレアン公を出資者として、王妃のスキャンダルをパンフレットにして売り歩き成功を収める。

さらに、オルレアン公は首飾り事件を計画し、マルグリットはニセ王妃の役を務める。オルレアン公の狙いどおり、首飾り事件事件を通じて王妃の人気はさらに凋落する。

 

マルグリットは民衆に女だけでベルサイユに攻め込もうと呼びかけるがうまくいかない。そこにオルレアン公が現れ金を配ると、民衆たちは喜々としてベルサイユに進軍、国王一家をパリまで連行する。

監禁された王妃の見張り役として、マルグリットは王妃の部屋係を命じられる。マルグリットとマリー・アントワネットはぶつかり合いながらも交流を深める。さらに、同じ子守唄を知っていたことから、マルグリットが王妃の腹違いの姉妹(フランツ1世の私生児)であることが明らかになる。

マリー・アントワネットはフェルセン伯爵宛の手紙をマルグリットに預けるが、そこには外国勢力を使ってフランツ革命政府を倒す計画が書かれていた。

王妃の革命裁判で、王妃の反逆罪の証拠として、マルグリットは手紙に関して証言を求められるが、逡巡の末、マルグリットは証言を拒否したが、結局王妃は死刑判決となる。

王妃の処刑の日、倒れた王妃をマルグリットが助け起こす。王妃はマルグリットに礼を言い、処刑される。

エベールはマルグリットを王妃に同情し反逆罪の証拠を隠したと非難する。マルグリットは逆に、オルレアン公が王位を狙っていること、エベールがそれを知りながら共謀していたことを暴露する。これによりエベールとオルレアン公は失脚する。

 

感想

マルグリットの成長譚

おそらく、この話はマルグリットのビルデュングスロマンなんだろうと思った。

物語のはじめでは、権力者に陳情して世の中を変えてもらおう、という態度だったのが、自分たちで行動して世の中を変えよう、という意識に変化する。だんだん民衆にも失望してくるが、王妃との交流でヒューマニズムに目覚める(?)。最終的にはミソジニーを撒き散らすエベールや隠れ王党派のオルレアン公を失脚させ、「真の共和主義者」になってめでたしめでたし。(じゃないですよね、演出の意図としては・・・)

とにかく昆さんマルグリットが非常にパワフルで終始圧倒され、目が離せなかった。ひねくれた受け答えとか、お行儀悪い歩き方とか、妙にリアリティがあり非常に良かった。

 

このミュージカルの最大の見せ場は、マルグリットとマリーがぶつありあう場面。

貴族と平民は、人間として人格をわかり合う前に、身分によって分断されている。王は「私が鍛冶屋なら〜」王妃は「私達が普通の恋人なら〜」と言っているが、王族や貴族が実際に庶民に目を向けるわけではない。王妃は王権神授説を信じているし、マルグリットが指摘しているように「(無意識にマルグリットよりも)自分が上だと思っている」。

そういった、無意識にまで及んだ分断があり、ぶつかり合うことでその分断を超えてわずかに交流するというのは良かった。

昆さんマルグリットも笹本さんマリーもパワフルで迫力があり、このシーンはさすがに感動してしまった。子守唄のくだりとか血縁関係設定とかはなくてもいいとさえ思う。

 

フランス革命の捉えかた

このミュージカルは、フランス革命に対して非常に否定的に描かれている。

民衆の醜悪さと愚かさが執拗に描かれ、非常にグロテスクである。「自由・平等・博愛」というスローガンは「暴徒」が虐殺を行う際や、国王にフリギア帽を被せるシーンで使われ、皮肉に描かれている。革命家もエベールしか登場せず(終盤とつぜんロベスピエールやダントンが登場)、活動内容といえば王妃のスキャンダルを新聞にするだけ。その醜悪な革命側の中で、マルグリットだけが人権感覚に目覚めたように描かれていて違和感がある。

王妃の処刑の後、三色旗が舞台にババーンと出るわけだが、フランス革命をこんなに醜く描いちゃって、フランスに怒られないかな?と心配になるレベル。

 

初演では、王族側も民衆側も醜悪に描いていたのでバランスが取れていたと思われる。ところが、王族(というかマリー・アントワネット)を嫌なやつに描きすぎて不評だったため、良い人に寄せて行った結果、民衆側だけが醜悪なままになってしまったのだと思われる。みんな、民衆を悪く描くことにも怒ろう!(違う)

 

初演の演出家である栗山民也は、フランス革命を「負の歴史」と捉え、正義の名において、「大量の血が流されてしまった」ことに言及している(参考文献[2]、孫引きで申し訳ないが・・・)。フランス革命の血なまぐさい部分としては、一般には、本作で描かれている九月虐殺などの民衆暴力のみならず、ジャコバン政府による粛清も指すと思われる。しかし、本作では、民衆暴力については執拗に描かれるものの、恐怖政治については曖昧になっている。

 

一般に、フランス革命を否定的に捉える立場はあり、例えばハンナ・アーレントは、フランス革命は失敗だったと言っているらしい。ただし、アーレントの批判は、フランス革命が結局ジャコバン派の恐怖政治とロベスピエールの独裁につながってしまい、結局、民衆の政治的自由を実現できなかったことを批判するものである。

本作でも一瞬だけ恐怖政治に言及されているが、歴史的にはまだ恐怖政治が始まる前の場面に挿入されているし、恐怖政治で具体的に何が行われたかは描かれずに「恐怖政治」と歌っているだけなので、何を批判したいのかよく分からなかった。ロベスピエールも最後の方で突然登場して、本作の悪役であるエベールとオルレアン公をやっつけるので、むしろカッコいい感じに描かれている。恐怖政治を批判したいなら、恐怖政治をちゃんと描写したほうが良いと思うが、それは重視していないのかよく分からない感じになっていた。

 

反革命と目された人に対する虐殺など、民衆暴力を批判するのは、原作の小説に近い。ただし、原作でアニエス修道女がクリスチャンの立場から虐殺を批判したが、ミュージカル版ではその役割は聴衆に委ねられている。

民衆の暴力性を批判するというテーマは素朴にすぎるような気がするものの、悪いわけではない。しかし、後述するとおり、本作では民衆の愚かさを強調するあまり嘘が入り込んでおり、あまりフェアではない。

 

陰謀論

この脚本の最大の問題は、革命が起きたのは全部オルレアン公の陰謀のせいみたいに見えることだと思う。

オルレアン公が王妃を中傷するだけで愚かな民衆が騙されて革命を起こしました、ということになっており、さすがに民衆と革命に対して侮辱的にすぎるだろうと思う。特に、ベルサイユ行進の際、オルレアン公が民衆に金を配って動員したというエピソードはひどいデマで、ネット右翼の「左翼のデモは金で動員されている」じゃないんだから、と呆れた。別に革命を批判してもいいが(できればしないでほしいが)、嘘をついてまで貶めるんじゃあないよ。

 

どうも、フェルセンと王妃の恋愛をストーリーのメインに持ってきたせいで、フェルセンも王妃も、王妃が浮気しているから(そしてそれをオルレアン公がバラしたから)民衆に嫌われて革命が起きたと思っているみたいに見えてしまった。民衆の窮乏とか財政破綻とか特権階級への課税の話も出てきてはいるが、サラッと流されすぎている。ネッケルの罷免の話とか入れないと。

 

女性差別ミソジニー

マルグリットが運動の場で体感する女性差別はなかなか痛烈に描かれている。マルグリットがジャコバン派の面々に女だから排除されそうになるだけでなく、女たちに行動を呼びかけて拒否される場面は、女たち自身が女性差別を内面化していることを示している。

当時、男性の活動家たちが女性の権利を非常に軽視していたのは事実だが、しかし、現実のヴェルサイユ行進では、数千人の女性たちは自分の意志で(決して貴族に買収されたのではなく!)決起した。その中には後に革命的共産主義者同盟女性協会を設立するフェミニストたちもいた。本作では、マルグリットを「持ち上げる」ために、他の女性たちを実際よりも貶めているように思われる。

 

エベールが王妃の裁判で性虐待をでっち上げる場面では、本作では、聴衆の女性たちはエベールのでっち上げを信じて怒るというふうに描かれていた。『ベルサイユのばら』では全く逆で、女性たちは「エベールのゲスやろう」と怒っていたが、どちらが史実なのだろうか。調べられたら加筆します。何となく、『ベルばら』の方が事実何じゃないかと思うんだが・・・

 

民衆たちが王妃の浮気を過剰に非難するのもミソジニーを描いているのかもしれないが(王の浮気なら非難されないだろう)、革命側ばかりミソジニーに染まっているかのように描かれていてフェアではない。

また、女だから恋愛感情や家族愛に対して同情する、という描写はどうかと思う。マルグリットが愛に餓えているというのも何かなあ、原作ではアニエスや兎のおばさんとかに愛されていて、その2人が理不尽に権力に傷つけられたという経緯があるわけで。

最後のシーンで、憎しみ合うのをやめて愛し合いましょうという陳腐なまとめで終わってしまったのも、エッ、何で?という感じだった。

 

キャスティングと歌について 

オルレアン公は、役柄としては、王党派で民衆をバカにしやがるカス野郎だが、曲はカッコいいし小野田さんの歌は上手いしでムカついた。

ルイ16世役の駒田一さん歌上手くて良かった。ルイ16世の描写はちょっとアホっぽすぎて気の毒だけど...

今回の演出では、貴族の嫌なところや愚かなところはコミックリリーフのローズ・ベルタンやレオナールにだいぶ押し付けていて、ちょっとなあという感じ。この人たち貴族じゃないし。ヴァレンヌ逃亡の失敗もレオナールのせいですか?

ランバル公妃は史実ではポリニャック伯夫人やエリザベート内親王がいたはずの部分まで進出し大出世、良かったね(?)なぜかタンプル塔から一人だけ抜け出し(貴方も囚人では?)一瞬で虐殺されるという...

 

舞台と音楽について

舞台演出は照明がロマンチックで、衣装の豪華さも相まってテーマパークみたいな感じでよかった。舞台の回転も効果的に使ってるなと思った。しかし、渋谷のビルでこんなキラキラした舞台を見ているプチブル連中が、「街に目を向ければ地獄、何で気づかないの?」という歌を聞いているのは批評性がある。

音楽はいつものリーヴァイ節だから特に言うことはなし。『エリザベート』の「ミルク」の曲が聞こえた気がしたけど、セルフパロディですかね?

 

References

[1]

「ミュージカルの変異と生存戦略――『マリー・アントワネット』の興行史をめぐって――」田中 里奈、演劇学論集 日本演劇学会紀要71 巻 (2020年)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjstr/71/0/71_1/_article/-char/ja/

[2]

「ミュージカル『マリー・アントワネット』における分身の役割」松尾ひかり、文学研究論集第50号(2019年)

https://core.ac.uk/download/pdf/195800907.pdf

 

See Also:

遠藤周作の原作小説の感想。

iceisland.hatenablog.com

 

 

 

【感想】遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』

今度ミュージカル『マリー・アントワネット』を見に行くので、予習として、原作である小説『王妃マリー・アントワネット』を読んだ。遠藤周作による1979年の小説である。

筆者はミュージカル版は初演・再演ともに未見だが、いちおうストーリーは調べたので知っているつもり。

 

王妃マリーアントワネット(上) (新潮文庫)

王妃マリーアントワネット(上) (新潮文庫)

 
王妃マリーアントワネット(下) (新潮文庫)

王妃マリーアントワネット(下) (新潮文庫)

 

 

3人の主人公

フランス革命を実在・非実在の人々の群像劇として描いている。その中でも、3つの身分を代表する3人の女性がメインキャラクターとなっている。

 

マリー・アントワネット

本作のタイトルロールであり、彼女がフランスに嫁いでから処刑されるまでを描いている。

若いころはワガママで愚かだが、革命で辛酸を舐めて少しずつ人間的に成長していく。よくあるマリーアントワネット像で、特に目新しい点はない。

 

マルグリット・アルノー

ミュージカル版ではもう一人の主人公(MA)になっている平民の女性。自分の貧しく悲惨な境遇から、マリー・アントワネットをはじめとした王族・貴族を憎んでおり、復習を望んでいる。革命がはじまってからは、虐殺に喜びを見出すようになる。

マリーアントワネットに外見的に似ているという点がしばしば言及され(ミュージカルと違って血縁関係は示唆されていない)、首飾り事件ではニセ王妃の役を演じる。史実の首飾り事件でニセ王妃となった女性ニコル・オリバから着想を得たキャラクターだと思われる。

 

イボンヌ・アニエス

マリーアントワネットが第二身分(貴族)の主人公、マルグリットが第三身分(平民)の主人公だとすると、第一身分(聖職者)の主人公にあたるのがアニエス修道女である。クリスチャンである遠藤周作の考えに最も近い存在だと思われる。

修道女だが革命の理想に共感し、修道院を出奔して女工となる。しかし、革命が勃発すると民衆の暴力に疑問を持つようになる。ついに山岳派(過激派)の指導者マラーを殺害してしまい、マリーアントワネットのいるコンシェルジェリー牢獄に収容された後、処刑される。

史実でマラーを暗殺した女性シャルロット・コルデーをモデルにしていると思われる。

 

信仰と革命

クリスチャンの立場から社会の不平等に疑問を持ち、それを正そうとするアニエスの態度は、作者の考えと一致していると思われる。

たいてい、革命と教会は対立するものだという印象がある。たしかに、フランス革命のなかで、教会権力はアンシャン・レジームの一部として批判された。さらに、共和制成立の後は、ロベスピエールらは無神論者で、キリスト教を弾圧し、非キリスト教化を推し進めた。

しかし、フランス革命の初期段階では、聖職者でありながら革命を支持する者も活躍していた。小説中にも、アニエスがシエイエスの著書『第三身分とは何か』を読むシーンが登場するが、シエイエスは聖職者であったが第三身分代表の議員として選出され、国民議会を設立した人物だ。実際、下位の聖職者には平民出身者が多く、改革賛成派も多かったらしい。そのため、三部会では第一身分の一部が第三身分に合流し、国民議会を設立した。

現代では、キリスト教信仰と革新思想を結合させた思想として、解放の神学がある。運動の源流であるフランス革命の初期にも、信仰と革命の結合がみられることは、今まで意識していなかった。今後調べると面白そう。

 

ミュージカルへ

ミュージカル版のマルグリットは、小説版のマルグリットとアニエスを合体させたキャラクターである。

平民で過酷な環境で育ったという点は小説版のマルグリットを引き継いでいるが、革命精神への共鳴、民衆の暴力への疑問、獄中のマリー・アントワネットとの交流といった精神的な要素はほとんどアニエス由来である。

小説版のマルグリットは革命の暴力的な側面を感覚的に肯定しており、マリー・アントワネットに同情したりはしない。当時の民衆としてはリアリティがあると思うが、これだと観客は共感しづらいと思われ、理性的に革命に共感するアニエスの内面が採用されたのだろう。

また、ミュージカル版のマルグリットは革命指導者だが、小説版では革命を主導する立場にあるのはアニエスである。舞台で王妃と対峙するには、立場的にもそれなりにする必要があったと思われる。

 

女性の描写

本作では3人の女性主人公たちは皆かなり愚かに描かれている。しかもそれを女性であることに紐付けた表現が散見され、だいぶミソジニック。

また、セックスシーンはないものの、性に関する話題もかなりの頻度で挿入される。マルグリットがマリーアントワネットを鞭打ちすることを想像して興奮するシーンなど、かなり陳腐な感じがある。出版された当時は女性主人公の物語にはセックスの描写が必須だったのだろうか。

 

ミュージカル版では、マルグリットが女性であるために革命勢力の中でも排除されるシーンがあり、批判的に描いている。日本におけるフランス革命ものの元祖の『ベルサイユのばら』は、男装して自分の思想に殉じる女性を描いており、当時としては非常に革新的だったが、政治運動は男性の特権だったことを無批判に描いていた点は現代からみると不満があった。その点、ミュージカル版『マリー・アントワネット』は、女性の描き方の点でかなりアップデートされていると思う。

近年、マリー・アントワネットの周囲の女性を題材に、フェミニズムの立場から描くフィクションが流行っている印象がある。小説の『マリーアントワネットの日記』『ベルサイユのゆり』シリーズ、漫画の『傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン』など。

革命側対王政側という構図の外から、社会における女性の立場や生活について捕らえなおそうという機運が高まっているのだろうか?個人的には、フランス革命当時に既に女性の権利宣言を行って「反革命」として処刑されたオランプ・ド・グージュを描いた作品を読んでみたいなと思う。

 

References

「ミュージカルの変異と生存戦略――『マリー・アントワネット』の興行史をめぐって――」田中 里奈、演劇学論集 日本演劇学会紀要71 巻 (2020年) 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjstr/71/0/71_1/_article/-char/ja/

「ミュージカル『マリー・アントワネット』における分身の役割」松尾ひかり、文学研究論集第50号(2019年)

https://core.ac.uk/download/pdf/195800907.pdf

 

 

 

See also:

ミュージカル版見ました。原作とは何だったのか・・・

iceisland.hatenablog.com

 

遠藤周作好きな人はこっちもどうぞ

iceisland.hatenablog.com

【感想】ミュージカル『新テニスの王子様 The First Stage』

『新テニミュ』を見に行ってきた。漫画『テニスの王子様』の続編である『新テニスの王子様』をミュージカル化した作品である。

「新」テニミュということで、今までのテニミュから音楽的に進化していて、驚いた舞台だった。

 

基本情報 

2021年2月7日(日)ソワレ@日本青年館ホール

キャスト

入江奏多相葉裕樹

他は省略

 

ストーリー

テニスの王子様』の登場人物である中学生テニスプレーヤーたちが、高校生の日本代表合宿に参加するという話だ。中学生たちは、ペアを組んで試合をし、負けた方は合宿から追い出されてしまう。

勝った方の中学生たちは、高校生たちに混じって練習するなかで頭角を現す。実力者の鬼先輩(鬼のような先輩ではなく、鬼という苗字の先輩)に率いられて、高校生チームと試合をし、勝利する。負けた方の中学生たちは、追い出されると思いきや、大自然の中で三船コーチにスパルタ教育を受け、一回り強くなって帰還する。

 

感想

キャスティング・ストーリーについて

まず、キャストに実力のある役者さんが大量に投入されていてびっくりした。前評判は聞いていたけど、予想以上だった。

今までのテニミュでは、基本的にはキャラクターは中学生だけで、それを演じる役者さんたちも新人かそれに近い人たちだった。今回は、高校生役・コーチ役に、既にミュージカル俳優としてキャリアを積んでいる俳優さんが多くキャスティングされていて、非常にレベルアップしていた。

特に、三船コーチ役の岸祐二さんは桁違いに上手かった。東宝レミゼでアンジョルラスやジャベールを演じたこともある方らしい。なんとなく三船コーチのシーンだけ曲がレミゼ風で、「さあお聞き下さい」みたいな雰囲気だった。三船コーチは革命起こし役なので、ジャベールよりはアンジョルラス(見た目以外)。

他のコーチ役、高校生役もレベルが高かったが、その中でも、鬼先輩役の岡本悠紀さんが良かった。歌もダンスもキレがあるし、演技も芸達者だった。鬼先輩は、歌舞伎で見得を切るみたいな動きがダンスに入っていたり、土蜘蛛の糸みたいなやつを投げたり、演出が凝っていて優遇されている。

また、出番が多い役に歌がうまい役者さんを割り振るように、キャスティングの基準が変わったのかと思う。

 

三船コーチと鬼先輩が、見た目のインパクトのみならず、歌もうまいし、曲がたくさんあるしで、かなり目立っていた。そのため、テニミュって美少年たちじゃなくて、おじさん(とおじさんみたいな人)を見るものなんだっけ?となった。ストーリー的にも、勝ち組中学生は鬼先輩に率いられ、負け組中学生は三船コーチに率いられ、で同じく顔の怖いおじさんに中学生ズが率いられる構図になってしまっていたのも、しつこさがある。これは原作のせいだからいかんともしがたいが・・・同じ展開になっているのを逆手に取った演出にしたら良かったと思う。

逆に、主人公のはずの中学生たちの印象がイマイチ薄くなってしまっていた。唯一出番が多かったのは跡部様で、演じている高橋怜也さんは新人なのに歌が上手いなあと思ったら歌手さんらしい。跡部王国の背景に城が出るのはFrozenのパロディなんだろうか。

私は赤也くん役の前田隆太郎さんが好きで見に行ったはずなのだが、あまり歌うシーンがなく(白石との二重唱は良かったが)、残念。歌も上手い役者さんだと思うのだが・・・

 

原作からして、『新テニ』は『テニプリ』よりもギャグ感のつよい作品なのだが、周りの観客があまり笑ってなくて困惑した。

「桃城の手首を完全に粉砕」したり、ガットが2本しかなかったり、試合相手を3回も磔にして「テニスに逆転ホームランはねえ!」と怒られたり(しかも結局KO負け)、5個のボールを同時に打って鷲を撃退したり(何のこっちゃ)、絶対笑うところだろ!と思うのに、みんな笑ってない。何でだ。慣れたんだろうか。

しかも次回は、ネットを炎上(物理)させたり、ダブルスで裏切ったり、試合中に海賊に刺されたりするわけでしょ?笑うでしょ、絶対。

 

音楽について

作曲家は、今までの佐橋俊彦さんから兼松衆さんという方に代わったそうだ。曲が非常にオシャレでキラキラになっていた。また、シーンによる曲調の使い分けが上手かったし、三船コーチのシーンはレミゼ風の曲だったりして遊び心が感じられた。個人的には、テニスの試合シーンの曲が、毎試合違っていたのが、芸が細かくて好きだ(今まで全試合同じだったよね?)。

話の構成上、学校単位ではなく、各キャラクター単位で話が進行するようになった。そのため、ソロ曲や二重唱が多くなり、合唱や群舞が少なくなって、寂しい。私はミュージカルの合唱が好きだが、2.5次元舞台はたいてい群衆が登場しなくて、合唱も少ない。唯一それを埋めてくれるのが、学校単位の合唱シーンだったのに・・・さらに、原作の熱心な読者というわけではないので、学校単位でなくキャラ単位で認識するには、キャラが多すぎて厳しい。

また、今までの曲はシンプルだったが、今回はソロ曲も二重唱もかなり歌うのが難しそうな曲が多かった。重唱でハモる部分がいくつかあったけど、難しすぎる気がする。

 

作詞家も、三ツ矢雄二さんから変わったんじゃないかと思うが、情報が見つけられない。(教えてください)変わってませんでした。

今までの歌詞は、ミュージカルの歌詞としては人称が不自然だと思っていたが(歌い手と歌詞の視点が異なっていた)、それが解消され、自然になったと思った。しかし、いかんせんあまり歌詞が聞き取れなかったので、定かではない。日本青年館ホールの音響がイマイチなせいなのか、役者さんたちがフェイスシールドをしているせいなのか分からないが・・・

 

音楽的には非常にレベルアップしていて、2.5次元舞台だから芸術的にはイマイチという印象を払拭したいのかなと感じた。キャストのギャラがチケット代金に跳ね返ってきているような気がするけど、気にしない。

一方、シンプルイズベストな大道具に照明を工夫してテニスの試合を表現する形式は変わっていなくて安心した。この手作り感はなくしてほしくない。

 

追記

音量が大きすぎて結構苦痛だった。改善してほしい。

初演のため、曲の予習、復習が出来ないのは残念。曲を耳に慣れさせてから舞台に臨みたいタイプなので。公演の前に曲を公開しませんか?

 

See also:

これまでのテニミュ感想。だんだん好きになっている・・・

iceisland.hatenablog.com

はじめてテニミュを見た回。

iceisland.hatenablog.com