RED & BLACK

観劇日記

【感想】ミュージカル『ファンレター(팬레터)』2017年ソウル公演(配信)

大学路ミュージカルのネット配信プロジェクト"K-MUSICAL ON AIR"で『ファンレター』を見ました。無料で大学路ミュージカルが4本も見られるだと?しかも英語字幕つき。

www.kmusicalonair.com

 

今年の冬にソウルまで見に行った『ファンレター』ですが、今回の配信は2017年の映像ということで、違うキャストさんで見られた。

↓あらすじと2020年冬の感想はこちらから

iceisland.hatenablog.com

 

基本情報

キャスト

キム・ヘジン:キム・ジョング

チョン・セフン:ムン・テユ

ヒカル:ソ・ジョンファ

イ・ユン:ジョンミン

イ・テジュン:ヤン・スンリ

キム・スナム:イ・スンヒョン

キム・ファンテ:クォン・ドンホ

 

感想

前回見たときとは、セフン・ヘジン先生は違うキャスト。ヒカルや7人会の面々は同じキャストだった。

ムン・テユさんのセフンは文学少年というよりオタクっぽさ全開。普段はコミュ障なのに、文学の話になったとたん(オタク特有の早口)になってた。しかし、それが「セフンの自身のままでは愛されない」という自己認識に繋がっているのかな。ヘジン先生のことは、はじめは純粋に文人として憧れの人で、思いがけず女性として好かれてしまったので困惑している感じだった。

ヒカルは、ヘジン先生のミューズとしてよりも、セフンのエゴとしての側面が強く出ている感じがした。前回見たときのヒカルもソン・ジュンファさんだったけど、ムン・テユさんのセフンが聖人君子っぽくないせいで(良い意味?で)、ヒカルも残酷な面が引き立っていたのだと思う。

ヒカルは「嘘をついてでも愛されたい」というセフンのエゴだけれども、ついに、セフンの「自分自身を愛してほしい」というエゴがそれを上回って、ヒカルは消えてしまうことになった。セフンの心の中で虚構(=ヒカル)を現実(=セフン)が打ち倒してしまったから、セフンは小説を書けなくなってしまった。ラストでヘジン先生がヒカルをセフンに返してくれたシーンは、ヒカル(=セフンの自己愛)をセフンが受け入れることで、セフンは自分自身を愛せるようになったのかなと思った。

 

ジョンミンさんのユン先生は、ずっとムスッとしているのがいい味出していたと思う。セフンに嘘の手紙を読み上げる場面なんか、無表情で「ユン先生は天才だ」云々と言うので笑う。その直後にニコニコでセフンを「辛かっただろ」と言ってナデナデするし、次のシーンでは死んでるし、感情の行き場がないんですが???

前回見たヘジン先生はメガネだったので(キム・ジェボムさん)、キム・ジョングさんのメガネレスなヘジン先生は新鮮だった。結構天真爛漫な感じでいいですね。(メガネじゃないのが残念だけど)

同じ作家として、ヘジン先生の「虚構の中で芸術的に死にたい」という欲求を理解したのがユン先生。逆に、現実と自分自身をぶつけたのがセフン。虚構の中で美しく死ぬのも良かったかもしれないけど、ヘジン先生が最後にセフンと現実を受け入れてくれて良かったなあ。

 

2回目の鑑賞ということで、演出的に対になっている部分を色々見つけてオッとなった。いやあ、よく考えられているなあ。

・セフンが紙で手を切ってヘジン先生に手当てをしてもらうシーンと、自分で手を刺してヒカルを消すシーン

・陽光の中のヘジン先生と、暗い部屋のヘジン先生

・ヘジン先生とユン先生の咳き込みからのお互いに背中さすさす(比較的元気なとき、死の直前)

・セフンからヘジン先生の最初の手紙と、ヘジン先生からセフンへの最後の手紙の日付(3月17日)

 

映像で見ることで、照明が見やすくなって、ちょいちょいセピア色っぽい照明になっていたことに気づいた。

逆に、カメラが舞台面よりかなり上側にあったので、キャストさんの表情やダンスなどの細かい部分は見づらかった。仕方ないけど。

英語字幕がついていたのだけど、若干読みづらい英語で(私の英語力の問題か)、頭がキャパオーバーになった・・・欲を言えば、あの素晴らしい日本語字幕で見たかったな・・・日本公演待ってます!!!せめて日本語字幕つきのDVDをですね、売ってほしい。

 

See also:

あらすじと、ソウルで観劇したときの感想。

iceisland.hatenablog.com

【感想】ミュージカル『モーツァルト!』2020年ソウル公演(配信)

韓国版『モーツァルト!』のストリーミング配信の感想です。

今年の『モーツァルト!』ソウル公演を録画を日本語字幕付の配信で見られるという企画。3種類のキャストを全部見られるというチケットを買って、上映会しました。

筆者は『モーツァルト!』は今回で初見でした。

piakmusicalmozart.com

 

 

キャスト

ヴォルフガング パク・ウンテ パク・ガンヒョン キム・ジュンス
コンスタンツェ ヘナ キム・ヨンジ キム・ソヒャン
コロレド大司教 ソン・ジュノ ミン・ヨンギ ミン・ヨンギ
レオポルト ユン・ヨンソク ホン・ギョンス ホン・ギョンス
ナンネル チョン・スミ ぺ・ダへ ぺ・ダへ

ヴァルトシュテッテン

男爵夫人

シン・ヨンスク キム・ソヒョン シン・ヨンスク
セシリア・ウェーバー

ジュア キム・ヨンジュ キム・ヨンジュ
シカネーダー シン・インソン シン・インソン シン・インソン
アルコ伯爵 イ・サンジュン イ・サンジュン イ・サンジュン

 

ストーリーについて

この作品は、何のために芸術活動をするのか?という話だと思った。

 

社会・家庭の中のヴォルフガング

ヴォルフガングは、身近な人(=レオポルト、ナンネル、コンスタンツェ)に愛されたいと思っているが、うまくいかずに絶望する。また、自由な音楽活動をしたいヴォルフガングは、教会の権威や貴族の社会(=大司教)も拒絶する。「天才」として生きる運命に疲れ、やめたいと願うが、彼の内なる才能、あるいは人に愛されたいという欲求(=アマデ)はそれを許さず、音楽活動を強要する。大衆に喜ばれる音楽(=シカネーダー)で成功するが、時既に遅く、ヴォルフガングの心身は限界に達していた。モーツァルトの素晴らしい音楽と、「天才モーツァルト」としての伝説だけが残される。(=男爵夫人)

 

エリザベート』のトート、『レベッカ』のレベッカのように、概念などの本当は存在しないものを生きたものとして描くのは、リーヴァイ&クンツェコンビの(ひいてはヨーロッパの芸術の)十八番だ。本作では、モーツァルトの才能の象徴であるアマデだけではなく、他のキャラクターも何かの象徴としての色が強い感じがした。

 

よくあるモーツァルトの伝記ものは、モーツァルトは天才でちょっとおかしくて、周りの凡人がそれに振り回される、みたいな描き方が多い。この作品は、そういう「天才」モーツァルト像とは少し距離をとっており、「天才」であることや、周囲の人との関わりに苦しむ姿が描かれている。そのため、ヴォルフガングが周囲のちょっと利己的な人たちに搾取されて辛いシーンが多い。

 

「アマデ」を作り出す家族関係、搾取、依存

この作品では、モーツァルトは青年の姿をしたヴォルフガングと、それに付き従う「天才少年」のままの姿の「アマデ」の2人が登場する。 

 

「アマデ」の存在の背景には、少し歪んだ家庭環境がある。

父レオポルトは、息子の才能に気づき、幼いころから音楽教育を施し、「天才少年」として演奏旅行に連れ出した人物。その底には、自分が実現できなかった音楽家として大成するという夢を、息子に代わりに実現してほしいという欲求が隠れている。ヴォルフガングもおそらくそれには気づいており、自分自身と、自分そのものである音楽を、父に愛してほしいと思っている。

ヴォルフガングはウィーンで音楽的に成功するが、自分の支配下の外で自分には理解できない音楽を作る息子を見て、息子の才能は自分が作ったものではないことを目の当たりにして、拒絶してしまう。

 

お姉さんナンネルは、子供のころ家族で演奏旅行をしたのを懐かしみ、弟をいつか自分をどこかへ連れて行ってくれる「王子様」とみなすようになる。しかし、ヴォルフガングはその期待に応えず、家族を捨てたと詰る。

 

父と姉、そして世間の人々が愛しているのは、「天才少年」モーツァルトであって、今の自分ではないという思いが、子供の姿をした「アマデ」を作り出した。アマデウス=神の愛(本当のミドルネームは「テオフィルス」で、これをラテン語にしたもの)のん前を持つ「アマデ」は、愛されたいという欲求を現すインナーチャイルドであり、モーツァルトの「才能」の源泉でもある。「天才モーツァルト」として生きる運命に疲れたヴォルフガングは、音楽をやめたいと願うが、「アマデ」はそれを許さない。音楽は、周囲の人や、世間の人々に愛されることだから。「アマデ」は、ヴォルフガングの意志とは無関係に作品を書くことを強要し、狂わせ、最後には、彼の生命を完全に吸い尽くしてしまう。

 

妻コンスタンツェはよくあるザ・悪妻!という描写ではなく、ありのままのヴォルフガングを受け入れて愛してくれる唯一の存在。コンスタンツェ自身も家族から搾取されていると意味では、ヴォルフガングとは似たもの同士。いかんせん享楽主義者・浪費家(似たもの夫婦ともいう)だし、実家がありとあらゆる手段でカネをせびりに来るので、生活は破綻。すれ違いの末に家を出て行ってしまう。

 

音楽と社会

この時代における理性や規律、(教会の)権威や階級社会を体現する存在が、コロレド大司教である。ヴォルフガングは、彼の元では自由な音楽活動ができないと感じてザルツブルグを去る。大司教は、ヴォルフガングの才能を見抜き、ヴォルフガングの音楽は、神の法から外れている「魔法の音楽」であると指摘する。ヴォルフガングの周囲の人々で、彼の音楽の特徴について具体的に言及するシーンがあるのは彼だけなのが悲しい・・・

オポルトの死後、『魔笛』で成功したヴォルフガングに、大衆的な音楽はやめるように説得するが、ヴォルフガングは「音楽は皆のもの」と言って決別する。教会と決別したヴォルフガングが最後に作曲したのがレクイエムなのが皮肉である。

 

大司教とは反対に、シカネーダーは、大衆のための音楽を象徴するキャラ。なので、彼のナンバーは演出がブロードウェイ・ミュージカル風(リーヴァイ&クンツェコンビ、大衆風の表現としてブロードウェイ風にするよね・・・)。ヴォルフガングは『魔笛』の成功で、自分の音楽が大衆に受け入れられることの喜びを味わうが、時既に遅しで死んでしまった・・・。今回のバージョンには入っていないが、初演時には、フランス革命の直後、市民の力が強まった時代に『魔笛』が作曲されたことを示すナンバーがあったそうな。

シカネーダーは、登場人物の中でほとんど唯一ヴォルフガングを利用して苦しめることがない。この作品が初演されたアン・デア・ウィーン劇場は、シカネーダーが設立したそうなので、忖度かもしれない(?)ちなみに、史実やウィーン版と違って、シカネーダーと違う人がパパゲーノ役をやっていたのがちょっと残念。

 

最後に、ヴァルトシュテッテン男爵夫人。ヴォルフガングの上京の件でもめているところに来て、「自分の生きる意味を知り」「金の星を手に入れ」るために、旅に出なさいと説き、ヴォルフガングを導く人物。彼女はおそらく素晴らしい芸術を作って後世に残すことを象徴しているキャラクターで、現代のわれわれの知っている「天才モーツァルト」像を作りあげる存在だと思う。演奏旅行中のモーツァルト一家の前に現れ、子供を搾取しちゃいけませんよ~と言ったり、たびたび予言のようなことを言うあたりも、普通の人間ではなさそうな感じがある。

男爵夫人は、ヴォルフガングの死の直前にも、ヴォルフガングの音楽を評して称える人々と共に現れる。人に愛されるために音楽を作ったヴォルフガングに対して、世間の人々から与えられた評価は「天才」「われわれと同じ人間なのか?」という皮肉なものだった。

 

演出と音楽について

ウィーン版ほど現代的なわけではなく、基本的には当時をイメージした衣装やセット。しかし、ヴォルフガングやコンスタンツェはジーパンにブーツだったり、ちょっと現代要素は残っている。コンスタンツェ母と姉の初登場時の衣装に豹柄があったのが笑った。豹柄は強欲な人間っぽいイメージなんだろうか。ウィーン版、日本版ではコロレド大司教が赤いコートを着ているが、それはなく、普通に大司教っぽい服だった。

録画なので大道具はあんまり観察できなかったのが残念。階段状のセットは、宝塚の銀橋を参考に作られたそうな。

魔笛』のシーンで背景に投影される映像が、カラフルな絵の具が広がっていくような感じで、『魔笛』らしくて素敵でした。

 

音楽は、ロックな曲の中に、ちょいちょい入る実際のモーツァルトの曲がいい感じ。レクイエムのDies iraeに歌詞ついているところが好き。韓国版では、ロック度はウィーン版CDよりは抑えられていてクラシック寄りのアレンジ。しかし、現地でもそうだが、韓国のミュージカルは歌の音量が大きすぎる・・・オケが聞こえなくて残念なので、何とかしてほしい。

モーツァルト!』に登場するモーツァルトの曲をまとめているサイトさんがあったのでリンクを貼っておきます。他の史実の解説も素晴らしくて参考になる。

http://www4.plala.or.jp/trillweb/t_mozart-composition.html

魔笛』のシーンでちゃんと夜の女王のアリアを歌えていて凄いなと思った。これを歌える人がいないと上演できないミュージカル、さすがウィーンミュージカルはハードルを軽々と上げてくる・・・

 

各キャストの比較

ヴォルフガング

パク・ウンテさんのヴォルフガングはかわいくて憎めない、純粋な感じ。あいかわらず歌も演技も超上手い!!!(一昨年に『ジキル&ハイド』を見てからの推し)。ヴォルフガングが周囲の人たちと上手くいかなくなる経緯には、ヴォルフガングが悪い面もいろいろあるのだが、パク・ウンテさんのヴォルフガングはあんまりそれを感じさせないので、相対的に周りの人々のやばさが際立ってしまう・・・アマデウスにインスピレーション?をフヨ~っと送る動作をよくやっていたのが印象的だった。

ジュンスさんのヴォルフガングは激しめで情熱的な感じ。汗だらだらでこっちまで疲れる。初めてジュンスさんのミュージカルをフルで見たけど、予想よりも正統派でちょっと意外?コンスタンツェとのラブシーン、コンスタンツェに「そのままのあなたが好き」って言われたとき、え??って顔をしていたのが特別感あって素敵だった。

パク・ガンヒョンさんは初めて見た方だけど、優しい綺麗な声で聴いていて気持ち良い感じ。辛い場面、苦悩する場面が上手かった。あと、悪ガキっぽい場面もなんとなくリアリティがある演技をされていた。

シカネーダーとの出会いのシーンでは、パク・ウンテさんヴォルフガングは変な動き?をして「ダンスは習わなかったみたいだな」と言われていたが、ジュンスさんとパクガンヒョンさんヴォルフガングはダンス上手いので「もう終わった?」と言われてたのが笑った。

 

コンスタンツェ

ヘナさんコンスタンツェは可愛くて無邪気な感じ。歌うまで驚いた。

キム・ソヒャンさんコンスタンツェは清純な感じ。

 

大司教

ソン・ジュノさん大司教、ちょっと変態的すぎで、『ヘルシング』に出てくるやばい司教に似ている(大司教なのに若すぎるのも似ている)。

ミン・ヨンギさん大司教は貫禄ありで渋くて、大司教ぽい。トイレシーンはミン・ヨンギさんの方がなぜか具体的で笑ってしまった。

 

オポルト

ユン・ヨンソクさんレオポルトは結構若くて厳しいパパ感。

ホン・ギョンスさんレオポルトの方がちょっとお年を召していて同情してしまう感じ。

パク・ガンヒョンさんの回にもユン・ヨンソクさんが出演されてませんでした?勘違いかな・・・

 

男爵夫人

シン・ヨンスクさんの男爵夫人はさすが、貫禄がありますね。歌も超絶うまいし、絶対私正しい!感がすごい。どうでもいいが、丸顔で、髪型が宮廷風のどでかいカツラなので、観音様っぽい。

キム・ソヒョンさん男爵夫人の方が優しそうですね。

 

シン・ソンヨンさんシカネーダーやイ・サンジュンさんアルコ伯爵も、キャラが立ってて魅力的だった。

 

 See Also:

iceisland.hatenablog.com

iceisland.hatenablog.com

 

Black Lives Matterとミュージカル『ヘアスプレー』

話題になっていたので、ミュージカル『ヘアスプレー』映画版を見た。

話題になっていた、というのは、まず、コロナ情勢の中でミュージカルを毎週無料配信するプロジェクト”The Shows Must Go On"で配信されていたため(日本をはじめアジアでは見られなかったけど)。次に、Black Lives Matterの流れの中で、制作陣が、このミュージカルでは、今後は、「設定どおりの人種」の俳優が演じる必要があるという声明を出したこと。

www.onstageblog.com

 

"The Shows Must Go On"で無料配信されていたのは2016年の『ヘアスプレー・ライブ!』だけど、とりあえず2007年の映画版を見てみた。アマゾンプライムで無料で見られた。

作品の舞台は60年代のボルチモアだ。主人公の女の子トレイシーはダンスが大好きで、ローカルテレビ局のダンス番組に出演することを夢見ている。オーディションでは太った体形やリベラルな発言に対して差別を受けるものの、番組のレギュラーとなり、人気者になる。トレイシーは白人だが、黒人が出演できるのは月に一度の「ニガー・デイ」と呼ばれる日だけだったり、黒人と白人が一緒に踊ることが許されていなかったりといった差別を目の当たりにし、黒人差別と闘うことにする。

人種差別だけでなく、体形や年齢に対する差別について描いたミュージカルで、特に、トレイシーのお母さんに関する描写がよかった。トレイシーは明るくて、自分が太っていることに関するコンプレックスは全くない。反対に、トレイシーのお母さんは自分が太っていておばさんであることを気にして、ひきこもり生活を送っている。トレイシーが有名人になったことをきっかけに、お母さんも外にでてオシャレするようになるシーンは素敵だった。また、トレイシーのお父さんはいたずら用品店を営む変人なのだが(いたずら用品店って実在するのか・・・)、太っていておばさんの君を愛していると歌うところは良かった。原作の映画は88年公開だが、当時としてはこういうエイジズム観は革新的だったんじゃないかと思う。

一方、人種差別についての描写は、人種差別との闘いがテーマのミュージカルという前提で見ると結構拍子抜けしてしまった。トレイシーと親友のペニーが黒人の同級生シーウィードにホームパーティに誘われて「有色人種に誘われた!私たち進んでる!」と喜ぶシーンは結構ギョッとした。あと、ダンスの映画だからという面もあるが、黒人の登場人物は皆ダンスや歌が上手い設定で、流石にステレオタイプすぎではと思った。シーウィードが歌う”Run and Tell That"や、シーウィードのお母さんのメイベルが歌う”Big, Blonde and Beautiful"はすごい良い曲だから相殺されているけど。

全体的に、差別は「遅れている」人間がするものであり、時代と共に解消されていくと言及される場面が多くてちょっとナイーブな感じがした。(30年代と違って)60年代では人と違っていることがカッコいいのだから太っているからと言って引きこもる必要はない、と語るトレイシーや、黒人と白人が一緒に踊るのが「未来」だ、と言うテレビ番組のプロデューサーなど。確かに時代が下るにつれて差別はマシになっただろうけど、60年代に「新しい」感覚を持っていたはずの若者たちが大人になっても差別が消滅したわけではないことは、原作が制作された88年には分かっていたはずだ。また、ラストでは黒人の少女アイネスが番組に出演するやいなや大人気になり、番組は差別を撤廃しますとアナウンスしてハッピーエンドという展開で、楽天的すぎて違和感があった。テレビの前で見ていたのは差別をしない「新しい」人たちだけだったのだろうか。普通の人間が差別をするという認識がないのかなと不思議な感じだ。反対に、悪役の親子だけが酷い目にあうのも、差別は特別に悪い人間がするというという認識の表れだろうか。

 

舞台芸術において、配役と人種の問題は、第一には労働問題だ。ミュージカルの中には、白人ばかりの社会が想定される演目も多く、黒人やアジア人の役は比較的貴重だ。だからエスニックマイノリティの役はそのエスニックマイノリティが演じないといけない。さらに、登場人物全員が白人(や当地でのエスニックマジョリティ)であることが想定される作品やは、カラーブラインドキャスティングが行われることも多くなってきており、黒人のファントムやアジア系のエポニーヌもいる。このあたりは最近は常識になっていて、議論の余地はあまりないと思う。カラーブラインドキャスティングが成立するのは、外見上のリアリティを追及するのが舞台の唯一の魅力ではないという認識が共有されているからだ。たまに海外ドラマや映画のカラーブラインドキャスティングを見て困惑・反発する日本人を見かけるが、それを理解していないんだろうなと思う。

第二に、アイデンティティの問題だ。ある属性固有の問題は、それを共有する者が語るべきだ、ということだが、これは結構難しい気がしている。例えば、アメリカでの黒人差別を描く作品で、黒人の俳優が演じるべき、というのは直感的に納得できる感じがする。しかし、例えば、『ミス・サイゴン』のキムはベトナム人女性という設定で、初演時からずっとアジア系の女優が演じているが、多くはベトナム人/ベトナム系ではないし、ベトナム戦争を経験したわけでもない。「人種」(白人/黒人/アジア系)は一致させる必要があるが、より詳細には合わせる必要はないとみなされているのは何故だろうか。他者が想像し、自分ごととして表現して良い領域、良くない領域は曖昧だ。欧米で差別を受けて生きる黒人/アジア系の役を、黒人/アジア系がエスニックマジョリティである地域で生まれ育った俳優が演じるのは良いのだろうか。トランスジェンダーの役はトランスジェンダーが演じるべき、という議論もあった気がするが現状どうなっているのかよく分からない。戦争や病気はよく演劇のテーマになるが、それを経験したことのない者が演じてよいのだろうか。人種のように、舞台上で観客にはっきりと分かる属性にしか適用されないのだろうか。役柄と同じ経験をした者のみが演じてよいという見方は、他者を「演じる」という観念に対立する。他者を「演じる」ことと「本物」が語ること、舞台上で嘘と本当が交じり合うところに魅力が発生するということなのだろうか。分からないので、ここで終わりにする。

 

それで、例えば欧米で作られた人種差別に関する作品を東アジアで上演するにあたって、どうするか。

まず1つ目の選択肢は、今回の声明の通り、意図されたとおりの人種のキャスティングを行うこと。日本ではミュージカル俳優自体が多いわけではないし、かなり難しいと思う。エスニックマイノリティの役だけでなく、マジョリティの方もそうするとなればなおさらだ(今回の声明ではそれが要求されているようだ)。

2つ目の選択肢は、当地の人種的構成比からして無理のないキャスティングにして、設定はそのまま上演することだ。今年日本でも『ヘアスプレー』を上演することになっていたが、この方法を取っていた(唯一、メイベル役のクリスタル・ケイさんはアフリカ系)。この時点では、原作の制作陣にも、設定上の人種を踏襲したキャスティングでないことは許容されていたようだ。

www.huffingtonpost.jp

 

3つ目の選択肢としては、上演地の問題に読み替えをすることだ。例えば、欧米での黒人差別に関する作品を日本で上演する場合に、在日朝鮮人や中国人、アイヌの問題に置き換えて上演すること。以前韓国で『アイーダ』を見たときの感想にもその可能性について書いた。『アイーダ』では古代エジプト人は白人、ヌビア人は黒人キャストが演じるのが通例になっている。歴史上そうだったわけではなく、エジプト人/ヌビア人の侵略する/されるの関係を白人/黒人になぞらえた演出になっている。だから、それを別の民族の関係性に演出しなおすことは無理がないんじゃないかと思ったのだ。(実際は、『アイーダ』はディズニーミュージカルだから演出の変更は難しいけれど)

iceisland.hatenablog.com

ただし、『ヘアスプレー』は、60年代のボルチモアであることをかなり強調した舞台なので、読み替えは適していないかもしれない。

今回の声明について、Twitterでいろいろ反応があったが、日本人キャストが許されないなんて不自由であるという意見と、固有の問題を描写するためには仕方がないという意見の両方を見た。面白かったのは、シェイクスピアの専門家である北村紗衣先生をはじめとした演劇畑の方々には前者の意見、映画好きの友人には後者の意見が多かった気がした。クラシックな演劇では、演出による解釈の違いや読み替えが醍醐味な感じがする。一方映画では、ある作品はそれ一つで完結した不変の世界であるイメージだ。それぞれのファン・コミュニティでは上演による変化に対する印象が異なるのだろう。ミュージカルは、演出の変更が許されている作品と許されていない作品があるため、その中間に位置すると思う。

 

See also:

iceisland.hatenablog.com

 

人間は猫にはなれない|ミュージカル『キャッツ』1998年映画版

アンドリュー・ロイド・ウェーバーの今週の配信は『キャッツ』でした。

www.youtube.com

 

 

感想

はじめて『キャッツ』を通しで見て、かなり狂った作品だと思った。俳優さんたちに、全身タイツみたいな衣装を着せ、あんまり可愛くないフェイスペイントをさせて、舞台で四つんばいで歩き回らせるなんて、誰か止めなかったんだろうか?

 

人間は猫になれないことについて

今までキャッツを見てこなかったのは、「いや、猫には共感できないでしょwww」と思っていたからだった。今回初めて見た結果、この作品は観客に共感させるのではなく、むしろ観客を徹底的に他者にさせる構造になっていると感じた。

全体的に、人間の観客には若干不親切な構造になっている。われわれに色々な個性的な猫たちを紹介してくれるのかと思いきや、メインキャラクターであるマンカストラップなどの一部の猫は最後まで名前が分からなかったりする。歌詞も、人間の理解を拒んでいるところがあり、難しい単語は使うくせに内容はネズミの話だったりする。また、猫同士のコミュニケーションは、歌(言葉)よりもジェスチャーによって行われるし、それも身体をすりよせるとかなので、われわれ人間にはなかなか共感しづらい。

そのせいで、われわれは猫社会の一員になった気分にはなれず、猫同士で遊んでいるのを見ている人間にしかなれない。あくまでも、猫のほうから人間に近づいてきてくれるのではなく、われわれの方から猫社会に近づいていくことを要求してくる。これが猫社会に対する正しい態度なのだろう。まあ、劇場で見ると、キャストが客席に来てくれる演出があったりするらしいので、もっと舞台に入り込めるのかもしれない。また、ロンドンの地名がたまに登場するので、ロンドンっ子だと親近感を持つのかもしれない。

 

全体的に性的な感じが濃いので、これは本当に見ていい映像なんだろうかという気持ちになる。ラムタムタガーはこんなエロい猫おるかいという感じだし(いるかも)、ボンバルリーナやディミータも色気がすごい。他の猫も、老猫以外は全身タイツで踊りまくって四つんばいで歩き回るし、猫同士でスリスリしたり尻尾を触ったりするので、目のやり場に困る。カメラワークも悪くて(悪いわけじゃないが)、やたらにお尻を振っているところをアップで映したりするのでやめてほしい。

 

グリザベラのこと

なぜグリザベラが嫌われているのかは不思議だった。劇団四季の曲名は「娼婦猫」となっているし、今まで、グリザベラは娼婦だと思ってきたので、職業差別的に嫌われているのだと思っていた。しかし、英語版だとグリザベラは「グラマー・キャット」であって、歌詞のどこにもグリザベラが娼婦だと書いていない。まあ、グリザベラだけハイヒールを履いていて、娼婦っぽい存在であることは間違いなさそうなのだが・・・

しかし、そもそも、猫なんだから職業なんてないのでは?スキンブルシャンクスやガスはプロフェッショナル意識に溢れているが、人間社会で働いている(と本人は思っている)のであって、猫社会で労働をしているわけではない。バストファージョーンズはクラブを経営していると歌詞にあるが、実際に猫がクラブを所有しているわけではなくて、高級クラブで可愛がられているだけだろうと思う。こういう人間の視点で猫の価値観をジャッジすること自体がナンセンスなのかもしれないが・・・

グリザベラと同じ老猫には、オールド・デュートロノミーとガスがいるが、この2人は周囲の猫に好かれているようだ。特に、ガスは昔は良かったと回想して現在を嘆いているという点で、グリザベラと同じなのに、ジェリーロラムに介護されているし皆に尊敬されているようだ。だから、グリザベラが嫌われているのは、単に今老いて醜くなっているからだけではないようだ。

歌詞では、昔は美しくて幸せだったということだけが語られていて、その当時何があったかの詳細は分からない。でも、グリザベラ自身が身体的なコミュニケーションで救われると信じていることは、過去には性的な関係に依存するような生活をしていたことをうかがわせるし、他の猫から性的なからかいを受けていることからは、他の猫たちはそれをよく思っていないと思われる。グリザベラの嫌われ方は結構ショックで、カッコいい猫と思っていたラムタムタガーが嫌そうにしているのは悲しくなる。

グリザベラ以外の猫たちも人間よりも性的に奔放に見えるのだが、グリザベラだけが嫌われているのは、猫の価値観的に何か許せないところがあるのだろうか?

ストレートな解釈だと、娼婦はキリスト教的に罪深いから嫌われていて、悔い改めたから救済された、というふうになるのだろうけど、猫にはそういう貞操観念があるのだろうか。冒頭のジェリクルソングのところで聖歌っぽい部分もあるので、この猫たちはキリスト教的感性を有しているらしいので、価値観も人間っぽいのかもしれない。

 

ミストフェリーズ君とラムタムタガーが仲がよさそうなのが可愛いと思ったのだが、劇団四季版だとラムタムタガーの曲でミストフェリーズが歌う場面はないらしい。悲しい。

 

演出について

全編ダンスがあるのは、アンドリュー・ロイド・ウェーバー作品には珍しい。ダンスはアクロバティックで、すごい技術が必要そうなものが多い。また、メインの猫はほとんど出ずっぱりなので、ずっと踊りっぱなしですごく体力が必要そうだ。

私は大衆が大好きなのだが、この作品は合唱はあっても大衆はいない。猫は全員名前がついている個人(猫だけど・・・)だ。初見では同じような猫がたくさんいて見分けがつかないのだが、見ているうちに認識できるようになってくる。猫社会は個人主義的(猫だけど・・・)なのかもしれない。

 

さすがにキャッツを見たことがないのもアレなので、いろいろ収まったら見に行きたくなった。映画は見るか迷う。ゴキブリ嫌だし、ミストフェリーズ君に彼女がいるのはヤダ。

 

See also: 

"The Shows Must Go On"プロジェクトの他の作品の感想

有言実行して劇団四季版の『キャッツ』を見にいったときの感想

iceisland.hatenablog.com

物議を醸した2019年版の映画

iceisland.hatenablog.com

【感想】スーパーオペラ『紅天女』2020年(配信)

藤原歌劇団が配信していたオペラ『紅天女』を見た。

 

www.jof.or.jp

 

紅天女』とは 

紅天女』は、漫画『ガラスの仮面』に登場する劇中劇である。『ガラスの仮面』は演劇の漫画なので、いろいろなオリジナル演劇が登場する。その中でも『紅天女』は主人公のマヤとライバルの亜弓さんが演じる権利をかけて対決する伝説の作品という設定。

紅天女』は、南北朝時代を舞台に、「紅天女」の化身である少女・阿古夜と仏師の一真という青年の恋物語だ。「紅天女」はおそらくアマテラスをモチーフにしており、神の依り代である阿古夜と、仏の象徴である一真を対比したスピリチュアルな作品である。そのため、『ガラスの仮面』では、その世界観にどうやって演技でリアリティを出すか、という点が主題となっている。

 

感想

このオペラは非常に原作に忠実な作りで、カットされている場面はおそらくなかった。漫画に登場する戯曲の台詞がほとんどそのまま歌詞になっているので驚いた。ただ、私の好みとしては、オペラの表現形態に合うように作り変えても良かったんじゃないかと感じた。

 

ストーリーについて

オペラにしては登場人物がかなり多く、ちょっと散漫になってしまった印象があった。本来、オペラでは戯曲と違って、アリアを歌えば話相手がいなくても、感情を観客に伝えることができるので、必要な登場人物は少なくてもすむはず。例えば、「一真が帝の命で天女像を彫らないといけない」ことを伝えるのに、必ずしも帝が登場する必要はなくて、照房が歌で説明すればいいのでは。

また、3時間の大作でかなり長いし、オペラではやりづらい場面もあったので、原作にあるエピソードを削ってもいいんじゃないかと感じた。三種の神器が盗まれるくだりとか、そんなに必要ないんじゃないか。

 

実は、原作ではまだ描かれていないラストシーンがこのオペラでは既に描かれている。詳しくは書きませんが、正直、よく分からなかった・・・原作で描かれるのを待ちます。だから早く完結して!!!

 

音楽について  

私は、状況の説明はレチタティーヴォでサッと済ませて、アリアで感情を思い切り吐露する、というふうにメリハリをつけてほしいタイプだ。一方この作品は、もともと戯曲として作られた台詞をそのまま歌に乗せているので、歌で感情を伝えるようになっていなくて残念だった。ワーグナーが好きな人にはいいかもしれない。(私はワーグナが好きではないので・・・)

 

阿古夜と一真のラブシーンは、オペラらしくて良かった。愛を歌う際に宗教の話をするのは、よくあるし自然な感じがする。

しかし、ラブラブなシーン以外では、あまりキャラクターの感情が伝わってこない感じだった。阿古夜も一真紅天女も、自分の気持ちを直接台詞にするのではなく、スピリチュアルなことばかり言うので、どうにもオペラっぽくない。例えば、ラストのシーンでは、一真は天女像を彫るために、紅天女が宿っている梅の木を切り倒さないといけないのだが、そうすると阿古夜は死んでしまう。そういう葛藤は、オペラだったら普通は「これが俺の使命なんだ~~~だけどやりたくない~~~」みたいにアリアをゴリゴリ歌うもんじゃないかと思うが、そうなっていないので拍子抜けしてしまう。戯曲では、喋っていることと本心にずれがある場合に、本心を演技で伝えられるのだが、オペラではそれは難しい。

 

オリジナルの展開が少しだけあり、楠木正儀の妻の伊賀の局という女性が登場する。この人のアリアは、ほとんど唯一感情を前面に出したアリアで、いきなりオペラらしくなって不自然な感じはしたが、良かった。伊賀の局を登場させたのは、おそらく、阿古夜(=紅天女)・一真カップルと、楠木正儀・伊賀の局のカップルを対比させたかったのだと思うが、後者のカップルの感情の交流があまり描かれていないので、あまり上手くいっていなかった。

 

 村の祭りの場面での合唱は凄く良くて、この雰囲気の出し方は戯曲ではできないと思う。阿古夜の村の人たち(実は紅天女の部下の精霊)のシーンも合唱にすればいいのにと思った。私はオペラの合唱が好きなので、合唱が少ないと寂しい。

作曲の寺嶋民哉氏は、『ガラスの仮面』のアニメや舞台の音楽も手がけてきた方だそうだ。 琴とかの和楽器が入っていて、いい雰囲気だった。

  

演出について 

紅天女の衣装は特に綺麗ですばらしかった。ただ、お着替えの時間がちょっと長すぎでテンポ悪くなってしまってたのが残念。

 

See also:

iceisland.hatenablog.com

 

【感想】"By Jeeves"(ミュージカル『天才執事ジーヴス』)2001年テレビ版(配信)

今週もアンドリュー・ロイド・ウェーバー作品の配信を見た。先週は50歳記念コンサートだったから、ミュージカル作品は2週間ぶりだ。

 

今週の"By Jeeves"は、小説「ジーヴスシリーズ」をもとにしたコメディミュージカルだ。2001年にテレビ放映用に撮影されたものとのこと。

youtu.be

 

あらすじ

あまり日本では上演されたことのない作品なので、あらすじから。

物語の舞台は、貴族の青年バーティ・ウースター氏のバンジョーコンサート。上機嫌で演奏を始めたバーティだが、その手にあったのはバンジョーではなく何とフライパン。バーティはあわてて執事のジーヴスを呼ぶ。

ジーヴス、ジーヴス、なんだいこれは!フライパンでございます、サー。私のバンジョーは?盗まれたのではないかと、サー。盗まれただって?新しいバンジョーを手配しましたが、届くまで2時間かかるとのことです、サー。2時間も!集まってくださったバンジョー大好きな皆さまをどうやって楽しませたらいいんだ?昔話をしたらどうでしょうか?例えばこんなふうに・・・

 

というわけで、バーティが過去に経験した騒動をもとにした即興劇が始まる。

騒動は、バーティが裁判で有罪判決を受けた際、とっさに友人ガッシーの名前を名乗ってしまったことからはじまる。ある日、ガッシーは恋人マデリーンの家に挨拶に行きたいという。しかし、マデリーンの父親はバーティに有罪判決を下した裁判官バセット氏。これはマズいというので、逆にガッシーはバーティの名前を使うことにする。

バーティが新聞を読んでいると、女友達のスティッフィと自分の婚約が発表されているのを見つける。スティッフィはバセット氏の姪。身に覚えがないバーティは、スティッフィの真意を確かめるために、バセット氏の屋敷に向かう。

バセット氏の屋敷に向かう途中、友達のビンゴとその恋人オノリアに遭遇する。この2人もチャリティー・ウォークのイベントでバセット氏の家に向かっていた。

バセット邸には登場人物が集合する。バセット氏に会ったバーティは、とっさにビンゴと名乗ってしまい、登場人物の名前はさらに混乱を極める。

スティッフィの発表した婚約の意図は、バーティを呼び出し、本当の婚約者ビンカー氏との結婚を叔父のバセット氏に認めさせる手伝いをさせることだった。スティッフィの考えた筋書きは、バーティが強盗のフリをし、ビンカー氏が強盗を捕まえることで、ビンカー氏はバセット氏の信頼を得るというもの。バーティは抗議するが、バセット氏が新聞を見てしまうと、娘と姪の両方がバーティと婚約していると思って怒るだろうと脅され、しぶしぶ計画を実行することに。

間違えてオノリアの部屋に忍び込んでしまうというトラブルはあったものの、ジーヴスの機転でとりあえず事件は解決。3組のカップルも無事結ばれ、大団円となる。

ここでちょうどバーティのバンジョーも到着、登場人物みんなで合唱しながらの演奏会となり、ハッピーエンド。

 

感想

オペラ形式の多いアンドリュー・ロイド・ウェーバー作品には珍しく、台詞メインでストーリーが進行し、要所で歌が入る形式。歌の分量はあまり多くはないので、多くの人がアンドリュー・ロイド・ウェーバー作品に求めているものとは違うと思うが、これはこれで楽しい。メインキャラのジーヴスに一切歌がないのも珍しい。脚本と歌詞を担当したアラン・エイクボーンは(私は存じ上げなかったが)有名な劇作家らしいので、こういう形式になったのだろう。

 

グダグダ感が楽しい作品。劇中劇を上演する間でも、バーティは始終ジーヴスを呼びつけ、この時どうしたんだっけ?とか、この後どういう展開にしたらいい?とか相談し、ときには現実に起こったことを改変させていく。そのため、劇と劇中劇との境界はかなり曖昧になっている。

劇中劇は即興なので、大道具や小道具も急ごしらえで、それがギャグにもなっている。登場人物たちを演じるのも、バーティ以外は本人ではなく、コンサートのスタッフたちである。

ミュージカルなので当然歌やダンスのシーンがある。即興劇なのに、完璧に歌ったり踊ったりしているのは変ではないか?いや、即興劇が始まる前のシーンで既にバーティが歌っているのだから、ミュージカルなのはバーティが演じる即興劇ではなく、"By Jeeves"それ自体であることになる。つまり、「バーティという人物が即興劇を演じる」というプロットが、舞台になって(今回はビデオだが)われわれの前に現れる過程で、歌やダンスが発生しているのだ。

ミュージカル嫌いの人がよく言うのが、ミュージカルはいきなり歌ったり踊ったりするから変だ、という主張である(タモリが言ったと聞いたことがあるが、違うかもしれない)。ミュージカルの歌やダンスっていったい何なのか?別に、ミュージカルの中の世界の住人は、常に歌ったり踊ったりしているというわけではない。われわれが物語を観測する際に、ミュージカルになって「見えている」だけだ。これは、映画の中の世界では常にBGMが鳴っている、とか、漫画やアニメの世界では登場人物の心情に合わせて天気が変わる、と理解するのが不合理であるのと同じことだ。

・・・というのが基本的な考えなのだが、結構メタ的な描写もあり、これを曖昧にしてくる。スティッフィがバーティを説得する"Love's Maze"のシーンでは、バーティの頭がダンサーの持った小道具に当たりそうになって顔をしかめたりする。まあ、そもそも即興劇を演じているスタッフたちが知りもしない過去の出来事を演じられるのは何故なのか、という疑問もあり、そのあたりはワザと曖昧にされている。

スティッフィ役のエミリー・レッサーは歌も上手いし可愛らしくてよかった。『ガイズ&ドールズ』の作曲家フランク・レッサーの娘とのこと。

 

ラストのバンジョーボーイのシーンでは、劇中劇の役者みんなで合唱するのだが、ここでオズの魔法使いのコスプレをしているのはどういうわけなんだろう?アンドリュー・ロイド・ウェーバーの次の作品がオズの魔法使いなのかな?と思ったけど、別にそんなことはなかった。

 

私はあまり英語が得意ではないので、こういった台詞が面白いタイプのコメディは日本語で見たほうが面白いだろうなと思った。そのせいか分からないが、140分もあり、歌もあまり多くないので、途中ちょっと飽きてしまった。

 

アンドリュー・ロイド・ウェーバーの配信の、他の作品の感想は下のリンクから見られます。

iceisland.hatenablog.com

 

【感想】在宅期間中に見たオペラいろいろ

自宅待機期間中、オペラは色々なところで配信されていて、とても把握しきれない。ありがたいけど・・・

 

新国立劇場トゥーランドット

長くなったので別ページにしました。

iceisland.hatenablog.com

 

ウィーン国立歌劇団「子供のための『ニーベルングの指輪』」

私はワーグナーが苦手なのだけど、これなら見られるかなと思ってみてみた。日本の新国立劇場で「子供のためのオペラ劇場」という企画で公演したものを、ウィーンに逆輸入したものだそうだ。

www.hmv.co.jp

あの長い長い「リング」が1時間にまとまっている。リンク先の解説には、

ヴォータンが身勝手に他人の黄金を奪ったり、ジークムントとジークリンデの近親相姦やジークフリートが殺されるといった人間不信に陥る要素は排除され、

とあるように、情操教育に悪そうな部分はカットされているが、元々のストーリーを生かしつつ上手くまとまっている。子供向けあって衣装もかわいい。字幕がなかったので確かではないが、歌詞は変わっていた。

 

まず、ワルキューレお姉さんたちファフナーと戦っているシーンで幕開け。しょっぱなからワルキューレの騎行」とは豪華だね。ファフナー王蟲みたいな造形で、超短い竜らしい。戦いのさなか、ブリュンヒルデがノットゥングの剣を壊してしまい、父ちゃんのヴォータンに怒られて火の中に封印されてしまう。ヴォータンは渋カッコいいし、ローゲの衣装はピグモンみたいで可愛い。

森の小鳥が現れ、携帯で眠っているブリュンヒルデの写真を撮影。ジークフリートに写真を見せると「何てかわいいんだ!」と惚れる。この流れ、魔笛じゃん。ジークフリートの衣装は妙にダサい。

しかしブリュンヒルデファフナーにさらわれてしまっていた。また、ラインの乙女たちが現れ、指輪をファフナーに盗られちゃったと訴える。ラインの乙女たちは魚の衣装なんだけど、ラインの乙女って魚だったの?

ジークフリートは折れたノットゥングを鍛えなおし、ファフナーと戦って勝利する。ブリュンヒルデも助け出し、指輪も取り返した。ブリュンヒルデと結ばれたジークフリートは、結婚指輪としてファフナーから取り返した指輪を渡してめでたしめでたし・・・と思いきや、ラインの乙女たちがやってきて、それ私たちのだから返して!と主張。ヴォータンに諭され、ジークフリートブリュンヒルデは指輪を乙女たちに返して、本当のめでたしめでたしで幕。

 

最後の場面、本物の「リング」の5億倍くらい道徳的で笑ってしまった。借りたおもちゃはちゃんと持ち主に返しましょうね~。子供でも分かるんだよなあ。それができれば世界が滅びることもなかったんだよ!

 

 

ウィーン国立歌劇場「エフゲニー・オネーギン」

新国立劇場のオネーギンを見逃してしまったので、というわけではないけど、こっちを見た。2019年の公演らしいです。

指揮:Michael Güttler
Eugen Onegin:Boris Pinkhasovich
Tatjana:Marina Rebeka
Lenski:Pavol Breslik
Olga:Margarita Gritskova
Fürst Gremin:Ferruccio Furlanetto

 

徹底的にオネーギンがいけ好かない感じに描かれていた。もともと嫌なやつではあるが、ずーっとむっつりしていてますます嫌な感じ。また、レンスキーとの友情もほとんど描かれていないように見えた。これは、2幕の決闘が決まったシーンの4重唱で本来オネーギンがレンスキーに対する友情を語るはずなのだが、ここに字幕がついていなかったせいかもしれない。2幕のレンスキーを殺したシーンとか、3幕でタチアーナに跪くシーンとか、ラストとか、一瞬だけ人間らしい顔になるのが上手いなあと思った。あと、3幕ではオネーギンがタチアーナにラブレターを書くのだが、1幕のタチアーナと同様に突っ返されていて、ざまあみろと思った。

レンスキーは、オリガと喧嘩して突き飛ばしたりして結構乱暴な感じだが、決闘の部分のアリアからは直情的だけど良い人な感じが出ていてよかった。

 

それに対して、女性陣は愛情豊かに描かれていてほほえましかった。特に冒頭のタチアーナとオリガが話している場面は、本を読むタチアーナの横でオリガが寝っ転がって雑誌読んでいて、タイプは違うけど仲のいい姉妹という感じでよかった。オリガ役のMargarita Gritskovaさんはずっとニコニコしていてとても可愛かった。タチアーナはウブで弱弱しい感じで描かれることがよくあるが、Marina Rebekaさんは強い感じなので1・2幕は正直あんまり似合わないなーと思ったけど、3幕は良かった。

 

衣装や大道具は、現代風のよくある感じ。ムッシュー・トリケがマジシャンみたいな格好なのは笑えて良い。

バックにたくさんの抱き合っているカップルが配置されていて、タチアーナがオネーギンにフられる場面でだんだん分かれて男が去っていく、という演出は大変さみしくて効果的だった。背景でずっと雪が降っているのは、ちょっとステレオタイプな感じがした。

 

それにしても、チャイコフスキーの音楽ってこんなに甘くて繊細で素敵だったかね?見るたびに好きになっていくなあ。

 

藤原歌劇団 スーパーオペラ『紅天女

これも別ページに飛びます。

iceisland.hatenablog.com

 

 メトロポリタン歌劇場ナブッコ

4幕でいきなりナブッコユダヤ教に改宗してハッピーエンドという超展開を、ドミンゴの超カッコいいナブッコで強引にまとめられていてよかった(?)。

アビガイッレもカッコよくて、3幕まではほとんどアビガイッレが主人公になっていた。1幕のユダヤの神殿にアビガイッレが攻め入るシーンでは、ユダヤ人の女たちが剣を取ってアビガイッレに立ち向かってくるのだが、その剣を片手で奪うアビガイッレ、カッコよさすぎる。しかし、アビガイッレに感情移入しすぎると、4幕の展開の変さが目立ってしまってよくないかもしれない。最後の展開はアビガイッレが可哀想だけど、ドミンゴナブッコが死にゆくアビガイッレの頭を撫でたりして本当に悲しそうにしていたのでグッときた。最後に父親に認められて良かったね。逆にフェネーナとイズマエーレは若干空気になっていた。それにしても、フェネーナはあまり政治に向いてなさそうだが、この国はどうするんだろうか。

北村紗衣先生が、アビガイッレはナブッコと奴隷の娘か、それとも奴隷同士の娘か、という問いを書いていらしゃった。

音楽は迫力があるのだが、どうも話が苦手で…メトロポリタンオペラ『ナブッコ』(配信) - Commentarius Saevus

2幕のアビガイッレが出生を記した書類を発見するシーンで、"Di Nabucco figlia, qual l'Assiro mi crede"(アッシリア人たちは私をナブッコの娘だと信じている)とか、"il finto padre"(偽の父)、と言っているので、アビガイッレは奴隷同士の子だと思う。METのサイトやWikpedia英語版にも、ナブッコの子ではなく奴隷(複数)の子と書いてあった。しかし、新国のサイトなど日本語のサイトを見ると例外なく、ナブッコが女奴隷に産ませた子説を採用していた・・・奴隷同士の子だと不思議な設定なので、どこかで間違って広まってしまったのだろうか?奴隷同士の子であるアビガイッレが王女として育てられた経緯としては、もともとナブッコとアビガイッレの母は関係を持っていて、アビガイッレが生まれたときはナブッコの子だと思って育て始めたのが、後から父親も奴隷であったことが明らかになったのではないかと想像した。

 

このオペラ、曲は大好きなのだが、ユダヤの神殿が破壊されるシーンとかの、つらいはずのシーンでも明るい楽しい曲なのはちょっと変な感じがした。やっぱりアビガイッレが主人公なんだろうか?合唱が多いのは好きだけど、民衆があんまりイキイキしてない感じだったのは残念。

衣装はちゃんとアッシリア人ユダヤ人に見えるし、オシャレでよかった。捕らえられたユダヤ人たちが望郷の思いを歌うVa' pensieroのシーンは、演出によってはシオニズムっぽくなると思うけど、そういう演出の例はあるんだろうか。